朱元璋(読み)シュゲンショウ

デジタル大辞泉 「朱元璋」の意味・読み・例文・類語

しゅ‐げんしょう〔‐ゲンシヤウ〕【朱元璋】

[1328~1398]中国朝初代の皇帝。在位1368~1398。廟号太祖。在位年号により洪武帝ともいう。紅巾こうきん軍の一兵卒から身を起こし、華中支配。続いて軍を追って全国を統一。明朝300年の基をつくった。

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精選版 日本国語大辞典 「朱元璋」の意味・読み・例文・類語

しゅ‐げんしょう‥ゲンシャウ【朱元璋】

  1. 中国、明朝初代皇帝(在位一三六八‐九八)。字(あざな)は国瑞。廟号は太祖。諡(おくりな)高皇帝。在位年号により洪武(こうぶてい)ともいう。濠州(安徽省鳳陽県)の貧農出身。紅巾軍の部将となり、群雄を降して長江一帯を平定、一三六八年応天(南京)で即位。里甲制を施行し六諭(りくゆ)を定め、中国史上最強の独裁体制を確立した。(一三二八‐九八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「朱元璋」の意味・わかりやすい解説

朱元璋
しゅげんしょう
(1328―1398)

中国、明(みん)朝初代の皇帝(在位1368~98)。廟(びょう)号は太祖。年号により洪武帝(こうぶてい)という。貧しい佃農(でんのう)の家に生まれたが、1344年、淮河(わいが)一帯を襲った飢饉(ききん)と疫病のため、親兄弟を失った。そのため皇覚寺(こうかくじ)に入って出家し、数年間托鉢(たくはつ)をしながら各地を放浪した。1351年紅巾(こうきん)の乱が起こり、各地で呼応して蜂起(ほうき)したが、翌年郭子興(かくしこう)も濠州(ごうしゅう)(安徽(あんき)省鳳陽(ほうよう)県)で反旗を翻した。朱元璋は郭子興の軍に参加、やがて郭に認められて、その養女馬氏(後の馬皇后)と結婚した。1355年郭子興が死ぬと、かわって郭軍の指揮権を掌握し、紅巾軍の一部将となった。彼のもとには同郷の湯和(とうわ)、徐達(じょたつ)や李善長(りぜんちょう)らが集まった。この年、朱元璋は揚子江(ようすこう)を渡って太平路をとり、翌56年には集慶路(後の応天府、南京(ナンキン))を占領した。以後、彼は応天府を根拠地として、周辺に勢力を拡大していった。当時、紅巾軍の本軍韓林児(かんりんじ)、劉福通(りゅうふくつう)は元軍の攻撃にさらされ苦しんでいたが、朱元璋は武昌(ぶしょう)に拠(よ)った陳友諒(ちんゆうりょう)、蘇州(そしゅう)に拠った張士誠(ちょうしせい)、台州に拠った方国珍(ほうこくちん)らと対抗して、覇権を争った。1363年鄱陽(はよう)湖で陳友諒を破って、これを殺した。1364年彼は自立して呉(ご)王と称し、1366年それまで正朔(せいさく)を奉じていた大明王韓林児を揚子江で溺死(できし)させた。1367年強敵張士誠の本拠蘇州を奪い、方国珍を投降せしめた。こうして、揚子江の南北をことごとくあわせた朱元璋は、1368年応天府で帝位につき、国号を明と定め、年号を洪武と決めた。これ以後、一世一元と定められた。皇帝となった彼は、四方に軍を派して、まだ支配下に入っていない地方を平定した。とくに北方に対しては、徐達らの大軍を派遣して、元(げん)の都、大都(北京(ペキン))を占領し、元の順帝をモンゴル高原に追い返した。その後も何度か大軍を派して元の残存勢力を討ち、1388年にはほとんど全軍を滅ぼした。

 さて国内を統一した洪武帝は、初め元の制度を多く踏襲していたが、1380年、胡惟庸(こいよう)の獄を機に中書省を廃止して、以後宰相を置かず、六部(りくぶ)を皇帝に直属させた。監察面でも御史台(ぎょしだい)を廃して都察院(とさついん)を設け、御史の地位を低くした。軍事面でも大都督府を廃して、五軍都督府に分割した。地方統治でも行中書省(こうちゅうしょしょう)(行省(こうしょう))を廃して、布政司(ふせいし)、按察司(あんさつし)、都指揮司の三権に分割、中央に直属させた。翌1381年には賦役黄冊(ふえきこうさつ)を制定し、全国的に里甲制を施行した。こうして、中国史上で最強の独裁体制を確立した。貧苦のなかで成長した洪武帝は民衆の統治によく配慮し、六諭(りくゆ)を定め、教民榜文(きょうみんぼうぶん)を頒布して、人民の守るべき分(ぶん)を教え、皇帝に忠実に服従すべきことを説いた。御製大誥(たいこう)によって、分に背いた場合、どのような悲惨な処分を受けるかについても説いた。それにもかかわらず、先の胡惟庸の獄についで、93年には藍玉(らんぎょく)の獄が起こり、多くの功臣、宿将を一掃しなければならなかった。洪武帝は晩年、猜疑心(さいぎしん)が強くなり、皇太子標(ひょう)を失い、精神的に不安のうちに病没した。

[山根幸夫]

『山根幸夫著『「元末の反乱」と明朝支配の確立』(『岩波講座 世界歴史12 中世6』所収・1971・岩波書店)』『谷口規矩雄著『朱元璋』(1966・人物往来社)』


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山川 世界史小辞典 改訂新版 「朱元璋」の解説

朱元璋(しゅげんしょう)
Zhu Yuanzhang

1328~98(在位1368~98)

朝の創始者。洪武帝。廟号は太祖。濠州(ごうしゅう)(安徽(あんき)省鳳陽県)の貧農出身。悪疫による一族離散後,托鉢(たくはつ)僧などをし,紅巾(こうきん)軍に身を投じて首領となった。紅巾の乱が続くなかで経済的中心たる江浙(こうせつ)地方で勢力を固め,乱後紅巾の性格を脱皮して1368年応天府で即位し,大明国を樹立した。建国後は一世一元の制の樹立,中書省の廃止による親政体制の確立,律令の改定,衛所制度の実施,魚鱗図冊(ぎょりんずさつ)賦役黄冊(ふえきこうさつ)の整備や里甲制の施行,人民教化のための六諭(りくゆ)の発布など多方面の改革を行い,明王朝の基礎を確立するとともに発展に努めた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「朱元璋」の解説

朱 元璋
しゅげんしょう

1328〜98
明の初代皇帝太祖,洪武帝(在位1368〜98)
安徽 (あんき) 省の貧農の子。元末期の大乱にあい,白蓮 (びやくれん) 教を信条とする紅巾 (こうきん) の乱に加わって一兵士から統率者となり,華中・華南の群雄平定に成功。白蓮教主韓林児 (かんりんじ) を殺し,1368年金陵(現在の南京)で即位した。国号を明,年号を洪武とし,大都を占領して元の順帝をモンゴル高原に追いやった。さらに四川・雲南を征服した。漢民族の伝統復興をはかり,科挙 (かきよ) を奨励して地主層を握り,農村を復興,魚鱗 (ぎよりん) 図冊(土地台帳)や賦役 (ふえき) 黄冊(戸籍原簿)の作成,里甲制の整備などにより財政確保につとめた。宰相胡惟庸 (こいよう) を粛清し,以後は宰相を置かず,六部 (りくぶ) を皇帝直属とした。軍事面は5人の都督(最高司令官)を置き,権力の集中を防止し,地方にも民政・軍事・刑事の官を並置させ皇帝直属とした。さらに明律・明令の制定,民衆教化のための六諭 (りくゆ) の発布などにより,宋以来の君主独裁権を強化した。

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百科事典マイペディア 「朱元璋」の意味・わかりやすい解説

朱元璋【しゅげんしょう】

洪武帝

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「朱元璋」の意味・わかりやすい解説

朱元璋
しゅげんしょう

洪武帝」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の朱元璋の言及

【洪武帝】より

…在位1368‐98年。姓名は朱元璋(しゆげんしよう)。彼は中国史上に一世一元制を創始したので,その元号により洪武帝という。…

※「朱元璋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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