能美郷
のみごう
郷域は現鹿島市の中心、もと能古見・鹿島といわれた一帯に比定される。古墳の分布状態から推定するほかはないが、浅浦・高津原丘陵・水梨・行成・久保山などに分布している古墳群を築成したところの鹿島川・中川・石木津川・浜川などの流域に開けた扇状地の農耕集落を基盤とする地域で、多良山麓の北部に位置する。
能美郷
のみごう
「和名抄」諸本とも訓を欠く。天慶三年(九四〇)九月二日の因幡国高草郡公文預東大寺領高庭庄坪付注進状(東南院文書)には「濃美郷」とあり、郷内北七条速見里・同船津里に高庭庄の庄田合せて三反があった。速見里・船津里の地名は後代に残らないが、現鳥取市の秋里・江津辺りに比定されている(鳥取県史)。承徳三年(一〇九九)三月二六日、初任の神拝を終えて帰京する直前の因幡守平時範に「野見郷司真遠」が馬二匹を献上した(時範記)。
能美郷
のみごう
「和名抄」高山寺本・東急本ともに「能美」と記すが訓を欠く。「芸藩通志」は「村名に残れり」とし、「日本地理志料」は乃美・清武・鍛冶屋の諸村(現賀茂郡豊栄町)にあてる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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