安芸国(読み)アキノクニ

デジタル大辞泉 「安芸国」の意味・読み・例文・類語

あき‐の‐くに【安芸国】

安芸

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日本歴史地名大系 「安芸国」の解説

安芸国
あきのくに

古代

大化改新以前にはほぼのちの安芸国の大部分に阿岐国造が勢力をもっていたが、芸北地域には出雲国造の支配が及んでいたと推測されている。大化改新後、阿岐国造一族はこの地域に設けられた評の行政官に任ぜられたと考えられる。天武・持統朝の頃、国司制度によって安芸国ができると、阿岐国造は凡直を称するようになった。

〔行政と国勢〕

安芸国は「延喜式」によれば等級は上国であり、近国・中国・遠国の区分では遠国であった。国府の所在は「和名抄」では安芸郡としており、現在の安芸郡府中ふちゆう町と考えられる。府中町は律令制下の安芸国安芸郡安芸郷の地であり、安芸の国名のもととなった地であることから、当初から国府がここに置かれたとする説が出されている。一方、当初は西条さいじよう盆地(現東広島市)にあったという説があり、奈良時代の国分寺・国分尼寺西条盆地にあったことを主たる根拠とする。当初の国府の位置については右の二説があるが、九世紀後期から一〇世紀頃には安芸郡府中町の地に国府があったことは疑いない。国という地方行政単位は律令制が実施される段階で初めて設定されたものであるから、国境の確定に問題が生じやすかった。「続日本紀」天平六年(七三四)九月一六日条に大竹おおたけ川をもって安芸・周防両国の境界とすると定めたとあるのは、おそらく大竹川(木野川)が氾濫によって河流が変動したからであろう。

安芸国の田地面積は「和名抄」に七千三五七町八反四七歩とあり、中世の諸書もほぼ七千町台の数値で一致する。これは諸書がその時代の田地面積を記しているわけではなく、平安末期から鎌倉時代にかけて一国惣検が行われた際の修正された数値であろうと推測される。国内の郡郷数は「和名抄」東急本によれば沼田ぬた郡七郷、豊田郡六郷、賀茂郡九郷、安芸郡一一郷、高宮たかみや郡六郷、高田郡七郷、山県郡五郷、佐伯郡一二郷の計八郡六三郷である。山陽道が通り、大同二年(八〇七)一〇月二五日の官符(類聚三代格)によれば、国内には一三駅があったと記されており、「延喜式」には真良しんら梨葉なしわ都宇つう・「鹿附」(宇鹿)木綿ゆう大山おおやま荒山あらやま・安芸・伴部とも大町おおまち種篦へら濃唹のお遠管おくだの駅名がみえる。

「延喜式」の規定では、安芸国では正税稲二三万束、公廨稲二二万八千八〇〇束、国分寺料稲三万束、文殊会料稲二千束、修理池溝料稲一万束、救急料稲一〇万束、駅子粮料稲三万一千二〇〇束を備えて、毎年出挙し、その利稲を各用途にあてることに定められていた。

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改訂新版 世界大百科事典 「安芸国」の意味・わかりやすい解説

安芸国 (あきのくに)

旧国名。芸州。現在の広島県西半部。

山陽道に属する上国(《延喜式》)。7世紀中ごろまでこの地域は阿岐国造の勢力下にあったが,律令体制が整備されると安芸国がつくられ,698年(文武2)には安芸国という国名がみえる(《続日本紀》)。国府は,9世紀後期ごろには安芸郡にあったといい,現安芸郡府中町に所在したことがわかるが,律令制当初から安芸郡にあったのか,それとも国分寺・国分尼寺の遺跡がある賀茂郡の西条盆地にあったのかは,結論が出ていない。734年(天平6)大竹川(現在の小瀬(おぜ)川)をもって安芸・周防両国の国界と定められた。国内には沼田(ぬた),賀茂,安芸,佐伯,山県,高宮,高田,沙田(豊田)の8郡があり,《和名抄》には61郷と2駅が記されている。同書には安芸国田数として7357町8段47歩とあるが,9世紀末から10世紀初期の国家資料の数字と考えられる。国内には山陽道が通り,真良(しんら),梨葉(なしわ),都宇(つう),鹿附(かむつき),木綿(ゆう),大山,荒山,安芸,伴部(とも),大町,種篦(へら),濃唹(おおの),遠管(おくだ)の13駅があり,これらの駅館は外国使節の通行のため瓦ぶき白壁ぬりであったが,9世紀初期には修理もおろそかになった。《延喜式》段階の安芸国の調庸品目では,調で上糸や高級絹織物が多く,また塩が調・庸に定められ,中男作物にみえる木綿は当国が主産地であった安芸木綿である。また安芸国は海外遣使のための大船の建造でも有名である。12世紀ころ諸国で一宮が指定されたが,安芸国一宮は厳島神社であった。保元の乱前後のころ平清盛と弟2人があいついで安芸守となったが,そのあと安芸国は平氏の知行国となった可能性が濃い。清盛が中央で急速に昇進を重ね太政大臣に任ぜられるが,彼は厳島神社を熱烈に崇敬し,平氏一族や上級貴族さらには後白河法皇や高倉上皇も厳島社参を行った。1164年(長寛2)に平氏一門が同社に納めた《平家納経》は当時の面影を今に伝える。厳島神社神主佐伯景弘はまた安芸国内の在地勢力を代表する政治的地位にあり,ついには安芸守となったが,安芸国内の在地領主たちは佐伯景弘を媒介として平氏や中央権門寺社に所領を寄進し,平氏の有力な勢力基盤となった。
執筆者:

源平内乱期,平氏と厳島神主佐伯景弘の強い結びつきに対し,他の在地領主層は反発して源氏に味方した者が少なくなかった。したがって平家没官領は意外に少なく地頭補任の知られるものは能美荘の葉山頼宗など数例にすぎず,うち葉山氏などは土着武士であった。当国守護としては1189年(文治5)武田信光の在任が推定できるが,それ以前は明らかでなく,文治の国地頭として葉山頼宗の在任を推定する説もある。ついで96年(建久7)以前に宗孝親の守護就任が知られる。孝親は同時に佐東郡・本安南郡など中枢部の地頭職,在庁兄部(このこうべ)職と在庁名の久武名その他の所職,内部荘・能美荘など多くの地頭職を知行したが,これらは葉山頼宗一族から受け継いだものと推定される。頼宗からの所領没収は,1203年(建仁3)山方為忠の壬生荘地頭職を取り上げ小代行平に与えた事例とともに,幕府の西国武士抑圧策の一環である。承久の乱(1221)にあたり,宗孝親をはじめ厳島神主佐伯氏,葉山氏などは京方に味方したが,乱後孝親の所領の多くが守護に還補された武田氏に引き継がれた。ほかに新補地頭として確かめうるものに,大朝本荘の吉川氏,三入荘の熊谷氏,安芸町村の平賀氏,都宇竹原荘の小早川氏,八木村の香川氏,温科村の金子氏などがある。厳島神主職も佐伯氏から藤原親実に移った。23年(貞応2)の同社炎上後安芸国を造営料としたが,再建事業遅滞のため国務を社家に付し神主親実を守護に任じその権限による造営の促進がはかられた。親実は孝親時代の例により佐東郡等の地頭職以下を領知したが,造営の一段落を見た40年代に当国守護を去った。その後に還補された武田氏も,孝親以来の守護領を継承したが,文永の役(1274)に際し,信時は安芸に下って地頭御家人および本所領家一円地の住人を指揮して防御に当たるべきを命ぜられ,その権限に乗じて以前から繰り返していた荘公への介入を強めた。

 守護職はその後89年(正応2)までの間に北条氏一門の名越宗長に移り,得宗専制政治の下で一門の所領は当国でも増加し,可部荘東方,苅田久武郷,沼田荘梨子羽郷などがあるが,名越氏の下において武田氏は在国司,佐東郡地頭等を兼帯し,在庁官人の被官化を進めた。鎌倉時代を通じて当国に所領を得た東国御家人も,直ちに本拠を移したのではない。西遷の理由は,本領の狭小や度重なる政変による政治的地位の低下などのほか,蒙古襲来を契機とするものなどさまざまであるが,13世紀末~14世紀初頭と南北朝初期とが多い。なお鎌倉時代には王朝国家権力はなお根強く,沼田荘では仁治・建長・文永・弘安と領主の正検が行われており,国衙領においても,97年(永仁5)承久以後の武士の押領を停止するため一国平均の国検実施が認められている。

 1335年(建武2)足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと,当国では武田信武の下に国内の武士が結集し,同年12月の矢野城合戦では毛利,熊谷,吉川以下の諸氏が信武の麾下(きか)で参戦し,宮方の熊谷蓮覚を滅ぼして東上した。翌年2月西走の途次室津で尊氏が定めた部将配置では,安芸には桃井義盛と小早川一族が差し置かれた。尊氏の九州からの東上に安芸の軍勢も多くこれに従い,以後武家方として出動することが多く,38年(延元3・暦応1)の南朝方による京都奪回作戦では,守護武田信武をはじめ小早川一族も武家方として出陣した。もっとも,これ以前府中田所氏の一族石井氏や新勅旨田公文藤原忠清などは宮方として挙兵しており,この年3月には小早川頼平・高平らが沼田荘内で挙兵し,石見から南下した宮方と合体して広島湾頭開田荘火村山城にたてこもったが,守護代福島左衛門四郎入道の率いる諸氏の攻撃により陥落した。観応の擾乱期には50年(正平5・観応1)西条盆地の西条一族,吉田荘での毛利親胤,猿喰山城の山形為継らの南朝方としての挙兵と,これに対する守護軍勢の攻撃があり,翌年には土佐から安芸に移った常陸親王による諸氏への兵粮料所預置,52年には南朝方の毛利一族の拠る吉田城・坂城等に対する守護軍勢の攻撃,さらに今川頼貞指揮軍による守護軍への反撃と追落しなど戦争が連続するが,63年(正平18・貞治2)山名時氏の幕府への降伏により鎮静化した。以後守護武田氏信による所領の安堵・預置が多く見られるが,同時に防長の大内弘世の安芸における活動が始まった。

 弘世は66年石州平定後安芸に進出し,翌年厳島神主に口入(くにゆう)して高田郡長田・保垣等の下地を地頭内藤道泰に預けさせ,また諸豪族による国衙領に対する違乱停止を命ぜられた。71年(建徳2・応安4)には,その前年九州探題を拝命した今川了俊が安芸守護となって下着し,毛利,熊谷,厳島神主等を従えて西下した。了俊は以後九州から守護権限に基づき所領の預置などを行ったが,同時にその下で大内氏が所領の預置・安堵などを行っている。74年(文中3・応安7)以後,九州出陣中の毛利元春領内で,父親衡や元春の弟たちが弘世を語らい,吉田城など5ヵ所に要害を構え,元春の子息らと戦いを交えた。76年(天授2・永和2)幕府による弘世の石見守護職没収によりようやく事態はおさまった。このころ諸豪族による国衙領押領が依然続き,幕府の了俊や弘世らへの下命も効果がなかった。弘世の後をついだ義弘は了俊との関係が緊密で安芸国内に守護的活動を行い,また義満から東西条を拝領し安芸国内への影響力を一段と強め,95年(応永2)了俊の後をついだ渋川満頼に至っては,九州経営におけると同じく安芸においても義弘のかいらいにすぎなかった。

 応永の乱(1399)が始まると幕府は毛利広世らに参陣を求めるとともに,国人中にあてて守護満頼の下向を告げ武田氏信と協力しての忠節を要請した。防長守護として西下した大内弘茂らが大内盛見軍に敗れると,幕府は1403年山名満氏を安芸守護に任じ大内与党の掃討を策し,地頭御家人以下の当知行本新所領の支証の提出を命じたが,大内与党の安芸国衆33名は翌年,国人一揆を結成して本領安堵を目ざした。幕府が備・芸・石の軍勢を動員して鎮圧を進め,ついで討伐軍の派遣を決定すると,一揆は分裂した。06年新任の守護山名煕重は一揆方国人領主所領の整理を強行して,一揆を崩壊させた。武田氏も反守護方であったが03年初めころ降伏し,以後安南,佐東,山県の3郡の分郡守護として位置づけられた。15世紀中ごろから実力による紛争解決の傾向が顕著となった。厳島社領をめぐり57年(長禄1)大内と厳島神主家の連合軍は武田氏の陣営と衝突したが,この対立は65年(寛正6)の幕府による河野討伐戦にも持ち込まれ,大内教弘は河野氏を助けた。

 応仁の乱(1467)には大内与党の厳島神主竹原小早川らは西軍に,武田・毛利・吉川・沼田小早川らは東軍に属し,71年(文明3)には武田元綱や毛利豊元が西軍に応じた。乱後武田氏では元綱の子元繁が金山城主となり,99年(明応8)温科国親の反を平らげ,1507年(永正4)義稙を奉じて上洛する大内義興に従ったが,15年帰国するとかえって己斐城等を攻め,17年山県郡有田に出陣して敗死した。すでに12年有力国衆9人は一揆契状を結び国許の不安に対処しようとしたが,山陰の尼子経久が16年帰国して南下を企て,20年ころから芸備の諸豪族を服属させ,23年(大永3)には東西条の鏡山城を占拠し,またその後援により友田興藤が桜尾城に入り厳島神主となった。これに対し大内義興も18年に帰国,23年から芸備に進出し翌年桜尾城を陥れ,毛利氏も大内方となって武田氏は孤立した。33年(天文2)には熊谷氏が毛利方につき,また白井・香川・己斐の諸氏まで武田を離れ,内部から崩壊し始めた。40年尼子詮久は大軍を率い吉田郡山城を攻め,武田光和の後嗣信実は金山城に拠り,翌年1月友田興藤も桜尾城で大内氏にそむいたが,大内氏は部将陶(すえ)隆房を派遣し,毛利氏と協力して同1月郡山城攻囲の尼子軍を敗走させ,4月大内義隆みずから桜尾城に興藤を滅ぼし,ついで金山城を陥れて武田氏を滅ぼし,東西条の槌山城,金山城,桜尾城等に城督を置いた。翌年義隆の出雲遠征失敗後も両陣営の対立は続くが,尼子の勢力は衰え,その間に毛利氏が勢力を拡大した。51年陶隆房が義隆打倒の際佐西郡を占領すると,毛利元就は佐東郡の全域を掌中におさめ熊谷・天野をはじめ多くの国衆を従えた。元就は54年5月陶と断交し金山・桜尾等の諸城を奪い厳島を掌中におさめ,翌年厳島を占拠した陶軍を滅ぼし,安芸における覇権を確立した。これより先46年12月,隆元が父元就の譲を受けて家督を継ぎ,2子元春は49年吉川氏の嗣として新庄に入部し,3子隆景は同年竹原小早川の嗣となり,翌年沼田小早川家本宗を継ぎ,ここに吉川氏とともに両川として毛利氏を支える体制ができ,同年家中統率上の支障であった井上衆を誅伐した。63年隆元が急死しその子輝元が継ぎ,これを両川が輔翼することとなった。毛利氏は75年本願寺顕如の依頼に応じ石山本願寺を援助して信長勢力と対立するが,82年(天正10)信長の部将羽柴秀吉と和談が成立,85年には境目問題も解決し,豊臣政権下8ヵ国にまたがる大大名となった。
執筆者:

1589年(天正17)毛利輝元は太田川河口デルタの地に広島城の建設をはじめ,91年本拠を山間の郡山城から移した。内海に臨み,四通八達の地を利して領国の統一を固めようとしたのである。しかし国内には大友・尼子の旧臣や国衆など,毛利氏に臣従しながらも独自の所領支配を温存する者が多く,領国経営の近世化は進まなかった。1600年(慶長5)関ヶ原の戦で大坂城に入った罪を問われた輝元は,防長2ヵ国に削封されて広島を去り,そのあと芸備両国の大守として広島城に入るのは福島正則である。正則は翌01年,太閤検地の基準による領内の総検地を実施して石高制を確立した。このとき安芸国8郡425ヵ村の総高は26万6862石余とされた。かくて正則は石高知行制や本途物成・小物成など近世的貢租体系を確立し,町在の分離を明確にして,家臣団の城下集住を徹底させるとともに,城下に西国街道(中国路)を東西に貫通させて町人居住区域を広め,商工業の発達をはかった。しかし19年城郭の無断改修の罪によって福島氏は改易となり,そのあと広島城主となったのは,紀伊国和歌山から入った浅野長晟(ながあきら)で,安芸国一円と備後国8郡,つごう42万6000石余を領した。浅野氏は原則的に福島氏の諸制度を継承したが,長晟のあとを受けた光晟の代,その近世的整備はいっそう進み,広島城下町を中心とする広島藩一円支配体制が確立された。33年(寛永10)幕府巡検使の派遣を機に道路・橋梁や宿駅施設の整備・拡充が大いに進み,西国街道をはじめ,石見・出雲路,津和野路など面目を一新した。一方太田川本・支流の開削が進み,上流域まで舟運の便が開かれ,瀬戸内の海運もいっそう盛大となり,在来の沿岸航路(安芸路乗り)のほか,西廻航路の開発に伴い沖乗り路が開かれて,新しい港町が発達した。

 新開造成や産業開発も盛んに行われた。17世紀における安芸国新開高は,沿海部の干拓新開を中心に1万8192石余に及び,竹原など大規模な入浜塩田が開かれた。新開地を中心とする綿作は繰綿・白木綿の産を盛んにし,安芸木綿の名で知られた。太田川流域一帯では大麻の栽培が普及し,荒苧(あらお)・扱苧(こきお)の産があらわれた。また太田川や小瀬川流域では楮(こうぞ)などによる紙漉(かみすき)が発達し,藩は早くから藩専売制のしくみで仕入銀を貸し下げるなど,生産の増加をはかった。山県郡の山間では鑪(たたら)製鉄も盛大に行われたが,藩は太田川上流域での砂鉄採取のための鉄穴(かんな)流しを禁じたので,砂鉄は石見国から移入された。芸北山地はまた豊富な薪炭材を供給したが,なかでもその西部冠山山系の森林は深く,ヒノキ・杉・クスノキなどの良材が切り出され,各種木地物や船材として重用された。倉橋島本浦をはじめとして沿海部の造船は古くからあらわれており,この時代いっそう盛んに行われた。芸予諸島一帯の海は豊富な漁場でもあり,鯛網,鰯網などをはじめ延縄(はえなわ),一本釣,八重篊(やえひび)など多様な漁法による漁浦が各地に発達した。また広島湾のカキ,ノリの養殖の歴史も古い。なかでも広島カキは,元禄期すでに大坂の諸川の橋際にカキ舟が進出して名声を高めた。

 諸産業の発達は,農村の経済力を向上させ,城下町の経済的繁栄をもたらした。この間,安芸国内人口と牛馬数は,1663年(寛文3)25万6312人(広島町を除く)・2万8174疋,91年(元禄4)35万2450人・2万9990疋,1715年(正徳5)39万2465人・3万3861疋と増加し,広島城下(町と新開。武家人口を除く)の人口も,1677年(延宝5)3万7406人が1715年4万8010人,1822年(文政5)4万8660人と激増している。しかしこのような商品生産の発展は,封建支配本来の立場からは望ましいことではない。18世紀に入って,藩主吉長は支配の強化を企ててかなり大胆な正徳改革を断行したが,1718年(享保3)これに反対するはげしい全藩一揆が起こり,改革は挫折した。その後はむしろ藩財政の補強を町人の経済力に求め,積極的な殖産興業策を進めて,藩専売制や株仲間商人の特権を強化,商業利潤を藩庫に吸収することがはかられ,矛盾を大きくした。18世紀後半,豪農層の発意で村ごとの社倉法が普及し,荒廃する農村の救済に一定の成果を収めたことが注目される。農村の相互扶助は真宗門徒のお寄講(よりこう)の組織に培われたところでもある。いわゆる安芸門徒の名があるように,早くから真宗の信仰が盛んであったが,19世紀初頭安芸国内の諸宗寺院総数602ヵ寺中,真宗寺は351を数えたほどである。幕末広島は再度の長州征伐で征討軍の基地となるが,藩はむしろ中立を持し,幕末の政局では薩・長・土の間を斡旋する役割を果たした。1871年(明治4)廃藩置県で広島県が成立し,安芸国はその県域に含まれた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「安芸国」の意味・わかりやすい解説

安芸国
あきのくに

広島県の西半部を占める旧国名。山陽道八か国の一、芸州(げいしゅう)ともいう。東は備後(びんご)、西は周防(すおう)、北は石見(いわみ)と各国境を接し、南は瀬戸内海に臨む。この国は大化改新以前、阿岐国造(あきのくにのみやつこ)が勢力を保ち、改新後、国が建置されると阿岐国造は凡直(おうしのあたえ)を称した。安芸国は上国、遠国(おんごく)。国府は、初め賀茂(かも)郡に置かれたという説もあるが、『和名抄(わみょうしょう)』に安芸郡とあり、9世紀後期から10世紀ごろには現在の同郡府中町の地にあったことが確認される。国内郡郷は、『和名抄』に沼田(ぬた)、豊田(とよた)、賀茂(かも)、安芸(あき)、高宮(たかみや)、高田(たかた)、山県(やまがた)、佐伯(さえき)の8郡63郷が記される。陸路には山陽道が通じ、『延喜式(えんぎしき)』によれば、東より真良(しんら)、梨葉(なしわ)、都宇(つう)、鹿附(かむつき)、木綿(ゆう)、大山、荒山、安芸、伴部(とも)、大町、種篦(へら)、濃唹(のお)、遠管(おくだ)の13駅があった。荘園(しょうえん)は8世紀末、墾田系の西大寺(さいだいじ)領牛田(うした)荘(広島市東区)もあるが、多くは11世紀中期ごろから形成され、中世荘園の基になる。高田郡三田荘、高宮(たかみや)郡三入(みいり)荘をはじめとして在地領主の所領が軸になっている。また1146年(久安2)平清盛(きよもり)が国守になって以後、平氏の重要知行国(ちぎょうこく)になったが、さらに中央の大寺や巌島(いつくしま)社などに寄進されて荘園が成立する。

 鎌倉時代になると、東国の御家人(ごけにん)が守護地頭として勢力を張り、やがて続々移住した。豊田郡沼田荘に相模(さがみ)小早川(こばやかわ)氏、佐西(ささい)郡に甲斐(かい)武田氏、山県郡に駿河(するが)吉川(きっかわ)氏、高田郡吉田荘に相模毛利(もうり)氏らが入って、守護武田、今川、山名、大内各氏の支配のもとで在地領主制を展開する。戦国末期、毛利元就(もとなり)が出て1555年(弘治1)巌島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、1566年(永禄9)尼子(あまご)氏の本拠月山(がっさん)城を陥落させて、中国地方のほぼ全域を支配した。そして、孫輝元のとき、全国統一を果たした豊臣(とよとみ)政権下に入り、山陰山陽9か国112万石の大大名となった。

 1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの結果、毛利氏は防長2国に削封(さくほう)され、福島正則(ふくしままさのり)が芸備両国49万石の大名として広島城に入った。1619年(元和5)正則の改易に伴い、浅野長晟(あさのながあきら)が安芸国、備後半国42万石の大名として入部し、廃藩まで存続した。浅野氏は、藩領の要所に家老給地を配し、地方(じかた)知行制による領国支配を行った。領内特産の割鉄(わりてつ)や紙、木材などに藩専売制をとった。浄土真宗の盛んな国として安芸門徒の称があり、寺院総数の58%(351寺)を真宗寺が占め、慧雲、似雲など著名な真宗学侶(がくりょ)が輩出した。また領主の好学が領内に反映され、頼春水(らいしゅんすい)、春風、杏坪(きょうへい)3兄弟や頼山陽(さんよう)(春水長子)のような町人出身の学者も活動した。1869年(明治2)版籍奉還、1871年7月廃藩置県により広島藩は広島県となり、さらに旧福山藩の備後地域を合して今日の県域となる。

[土井作治]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安芸国」の意味・わかりやすい解説

安芸国
あきのくに

現在の広島県西半部。山陽道の一国。上国。もと阿岐国造が支配。国府は初め西条盆地におかれたが,のち安芸郡府中町に移った。国分寺は東広島市西条町。『延喜式』によれば沙田 (まよた) ,沼田 (ぬた) ,安芸,佐伯,高宮,高田,賀茂,山県の8郡があり,『和名抄』には郷 63,田 7357町余が載っている。佐伯郡厳島神社は『延喜式』神名帳で名神大社,のち当国の一宮とされた。祭神は宗像三女神。久安2 (1146) 年,平清盛が安芸守に任じられて以後,本社を深く崇敬し,平家の氏神社とし,後白河法皇,高倉上皇も再三参詣。神主佐伯景弘は安芸守に任じられた。鎌倉時代には宗氏,武田氏,藤原氏が守護となり,南北朝時代から室町時代にかけては武田氏,今川氏,渋川氏,山名氏,大内氏が支配した。戦国時代には守護武田氏の勢力はふるわなくなり,大内氏が安芸国内にしばしば侵入するにいたった。毛利元就は初め尼子氏に属したが,のち大内氏に従い,天文 10 (1541) 年武田氏を銀山 (かなやま) 城に攻めて滅ぼした。しかし同 20年大内義隆はその家臣陶晴賢に殺され,毛利元就が弘治1 (55) 年陶晴賢を厳島に破ってこれを滅ぼし,安芸国の支配を確立した。豊臣秀吉は毛利氏を封じ,輝元 (→毛利輝元 ) のときには 120万石。慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いの結果,福島正則の領となったが,その後罰せられて除かれ,元和5 (19) 年に浅野長晟が安芸国に封じられた。江戸時代を通じて浅野氏の広島藩 45万石は変らず,幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県では新田藩 (浅野一族3万石) を合せて広島県に編入。

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藩名・旧国名がわかる事典 「安芸国」の解説

あきのくに【安芸国】

現在の広島県西半部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で山陽道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府は現在の安芸郡府中(ふちゅう)町、国分寺は東広島市西条(さいじょう)町におかれていた。1146年(久安(きゅうあん)2)に平清盛が国守となって以後、平氏の重要な知行地となった。鎌倉時代以降、小早川(こばやかわ)氏、吉川(きっかわ)氏、毛利(もうり)氏ら東国御家人が移住して在地領主制を展開。1555年(弘治(こうじ)1)に毛利元就(もとなり)が陶晴賢(すえはるかた)を破り、1566年(永禄9)には尼子(あまこ)氏の月山(がっさん)城を陥落させ、中国地方をほぼ統一した。関ヶ原の戦いののちは福島正則(まさのり)の、1619年(元和(げんな)5)からは浅野長晟(ながあきら)の所領となり、以後浅野氏が広島城を中心に支配体制を確立して幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により広島県が成立、安芸国はその県域に含まれた。◇芸州(げいしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「安芸国」の意味・わかりやすい解説

安芸国【あきのくに】

旧国名。芸州とも。山陽道の一国。現在の広島県西部。《延喜式》に上国,8郡。平安末に平氏と縁深く,知行国となったとみられる。鎌倉時代に甲斐の武田氏が守護。室町時代に大内氏,ついで毛利氏が領有。関ヶ原の戦後は福島正則,ついで浅野氏が領有。→広島藩
→関連項目中国地方沼田荘広島[県]三入荘

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「安芸国」の解説

安芸国
あきのくに

山陽道の国,現在の広島県西部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では沼田(ぬた)・豊田・賀茂・安芸・佐伯・山県・高宮・高田の8郡からなる。国府は平安時代には安芸郡(現,府中町),国分寺・国分尼寺は賀茂郡(現,東広島市)におかれた。一宮は厳島(いつくしま)神社(現,廿日市市宮島町)。「和名抄」所載田数は7357町余。「延喜式」では調庸として綾・絹・糸や塩を定め,中男作物にみえる安芸木綿(あきのゆう)は高級品とされた。平安末期には平氏との結びつきが強く,平氏政権下では院や貴族の厳島詣が盛んであった。鎌倉時代には武田・宗・名越氏らが守護となり,この間に安芸武田氏が勢力をのばした。南北朝期には銀山(かなやま)(現,広島市)が守護所とされ,安芸武田氏や今川貞世が守護を勤めた。戦国期に大内氏が勢力を拡大して守護方を圧迫するが,陶晴賢(すえはるかた)が大内氏に謀反をおこしたのを機に毛利元就(もとなり)が国内を統一し,近隣諸国をも支配下に組み入れた。関ケ原の戦後,福島正則が一国を支配。1619年(元和5)福島氏改易後,浅野長晟(ながあきら)が広島城主となり,以後幕末まで続く。1871年(明治4)廃藩置県により広島藩は広島県となる。

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