脇坂安宅(読み)わきさか・やすおり

朝日日本歴史人物事典 「脇坂安宅」の解説

脇坂安宅

没年:明治7.1.10(1874)
生年:文化6.2.15(1809.3.30)
幕末の幕府閣僚,竜野藩(兵庫県)藩主。父は脇坂安董天保12(1841)年襲封,弘化2(1845)年寺社奉行,嘉永4(1851)年京都所司代となる。安政1(1854)年,内裏炎上の善後処理に当たり朝廷より賞賜を受く。この間,ペリー来航,日米和親条約調印の事情を奏聞。安政4年老中,同6年外国事務主管となり井伊直弼幕政を支えた。万延1(1860)年辞任,文久2(1862)年4月家督を養嗣子安斐に譲り隠居。同年5月老中に再任,勅使大原重徳と折衝,9月病を理由に辞職した。同年11月,井伊の横死を病死と偽って報告したことが咎められ,謹慎を命ぜられた。

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「脇坂安宅」の解説

脇坂安宅 わきざか-やすおり

1809-1874 江戸時代後期の大名
文化6年2月15日生まれ。脇坂安董(やすただ)の次男。天保(てんぽう)12年播磨(はりま)(兵庫県)竜野(たつの)藩主脇坂家9代となる。奏者番,寺社奉行をへて京都所司代となり,賄料の増額など皇室のためにつくした。安政4年老中にすすみ,外国事務を担当。文久2年家督を安斐(やすあや)にゆずり隠居したが,同年老中に再任された。明治7年1月10日死去。66歳。通称は友吉,織部。号は揖水。淡路守。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「脇坂安宅」の意味・わかりやすい解説

脇坂安宅
わきざかやすなり

[生]?
[没]1874.1.10. 東京
江戸時代後期,第 11代播磨竜野藩主。安董の子。幼名は友吉,織部。天保 12 (1841) 年襲封。奏者番,寺社奉行を歴任し,嘉永4 (51) ~安政4 (57) 年京都所司代となる。次いで老中に進み,外国事務を担当。安藤信正とともに列国側に開市開港延期を提議した。文久2 (62) 年辞任,隠居した。

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367日誕生日大事典 「脇坂安宅」の解説

脇坂安宅 (わきざかやすおり)

生年月日:1809年2月15日
江戸時代末期;明治時代の大名
1874年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の脇坂安宅の言及

【竜野藩】より

…播磨国(兵庫県)揖西郡竜野を城地とした藩。初期は譜代,中期以降外様中藩。中世の竜野赤松氏が1577年(天正5)織田信長配下の羽柴(豊臣)秀吉に戦わずして開城したあと,81年蜂須賀正勝5万3000石が初の近世大名として入封した。その後豊臣時代の城主は85年福島正則5万石,88年木下勝俊6万4000石,94年(文禄3)小出吉政2万石と移った。江戸時代の竜野藩は1617年(元和3)本多政朝5万石の入封に始まる。…

※「脇坂安宅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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