日本歴史地名大系 「芥川城跡」の解説
芥川城跡
あくたがわじようあと
西国街道芥川橋東詰から東方四〇〇メートル・北方四〇〇メートルの城域をもったと推定される平城。成立年代は不詳。初めは鎌倉幕府御家人芥河氏の居館。初期の芥河氏については不詳な点も多いが、早くには弘安七年(一二八四)正月二〇日、西大寺叡尊を戒師として出家した芥河右馬允平影信がいる(感身学正記)。鎌倉後期に至って頻発する西国御家人芥河氏と六波羅との抗争は、ここに拠った芥河氏の成長ぶりを表している(延慶二年五月二七日「六波羅下知状案」東寺百合文書)。ただ、同じ頃に台頭する芥河氏の一族である真上氏や溝杭氏とちがい、芥河氏本家は庄園領や国衙領をもたず、西国街道沿いに展開しつつあった芥川宿(芥川市場)を本拠とした非開発領主型の武士であったところにその特徴がある(高槻市史)。居館は芥川橋東詰北部に所在したと推定されるが、それが、字一里塚、字東ノ内における西国街道の遠見遮断のための屈曲を伴う、東西四町・南北二町ないし四町に及ぶと推定される城地に発達したのは室町期であろう。城地の中心に字
鎌倉末期に確認しうる芥河氏一族としては惣領家芥河孫三郎左衛門尉信時、庶子家の芥河五郎四郎種直(垂水)、芥河岡孫四郎信覚の三家と、信時の姻族たる真上三郎左衛門政好とがいる(高槻市史)。真上氏は元弘三年(一三三三)五月近江国番場宿で六波羅北条氏と運命をともにして滅亡したが、その後芥河信時が建武政権によって主家旧領を安堵された庶子真上政資が自分の娘の子供(外孫)であるという関係を媒介として、政資の弟信貞を猶子として芥河家を継承させた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報