芥川城(読み)あくたがわじょう

百科事典マイペディア 「芥川城」の意味・わかりやすい解説

芥川城【あくたがわじょう】

摂津国島上(しまかみ)郡芥川(現,大阪府高槻市)にあった城。初めは西国街道芥川宿を本拠とした鎌倉幕府御家人芥河(川)氏の居館。芥川氏は南北朝期には安満(あま)庄を根拠に北摂国人一揆(こくじんいっき)を形成した。応仁・文明の乱には東軍に属し一旦退転したと考えられる。細川政元が再興,連歌師柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)の歌(《那智籠》,1515年−1517年成立)に被官能勢頼則の新城とみえる。新城とは芥川東岸の芥河氏の居館跡に築かれたとする説,北方三好(みよし)山の山城説がある。1533年の細川晴元入城後は晴元の支配下にあったが,1547年三好長慶(ながよし)の支配に帰した。1553年芥河氏の縁者芥川孫十郎を追って長慶が入り,1560年長慶が河内飯盛(いいもり)城(現同大東市)に移るまで三好氏の本拠とされた。1568年織田信長の攻撃で落城和田惟政が配され高山飛騨守に預けられたという。三好山の芥川山城と呼ばれる地には郭跡・土塁・堀切などが残る。

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日本の城がわかる事典 「芥川城」の解説

あくたがわじょう【芥川城】

大阪府高槻市大字原にあった山城(やまじろ)。戦国時代に三好氏の畿内進出の拠点となった城。芥川城は、室町幕府の管領細川高国(たかくに)が西国勢と北摂武士団への備えとして配下の能勢頼則(のせよりのり)に命じて築いた城砦に始まる。能勢氏の後、管領細川晴元(はるもと)の支配下に入った。本格的な山城となったのは、1553年(天文22)、阿波徳島から攻め上がってきた三好長慶(ながよし)が細川晴元を擁し入城したときといわれる。険しい地形を巧みに利用して本丸・出丸・東曲輪(くるわ)群を配し、土橋や土塁(どるい)・石垣を構築して巨大な山城とした。その後、長慶は晴元を追放、1560年(永禄3)に河内(大阪府)飯盛山城(いいもりやまじょう)に移るまで、長慶の居城となった。続いて長慶の子義興が城主になるが1563年(永禄6)に死去、1568年(永禄11)に織田信長が摂津へ侵攻し、細川昭元(あきもと)、三好長逸(ながやす)らが籠城する芥川城を落とした。和田惟政(これまさ)が城主となったが、翌年高槻城へ移り、芥川城は廃された。土塁や石垣、堀切などの遺跡がよく残っている。JR東海道本線高槻駅からバスで塚脇下車、徒歩15分。◇芥川山城(あくたがわさんじょう)とも記述される。

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改訂新版 世界大百科事典 「芥川城」の意味・わかりやすい解説

芥川城 (あくたがわじょう)

摂津国北東部の要地,島上郡芥川宿(現,大阪府高槻市)付近にあった城。芥川宿を本拠とし,鎌倉幕府の御家人で南北朝時代以降は代表的な国人であった芥河(川)氏の居館か,同時に城館でもあったと推定される第1期芥川城(平城)と,背後の山地,通称三好山に築かれた第2期芥川城(山城)がある。芥河氏の本家は応仁の乱中に滅亡し城館もいったん荒廃したが,その後細川政元が再建をめざし,被官の能勢頼則を配した。頼則はついで1516年(永正13)ごろ〈新城〉として山城を築いたことは,連歌師宗長の句(《那智籠》)によって確認される。その後北摂の要城として細川氏や三好氏に重視され,城主も戦局の推移につれて交代した。53年(天文22)三好長慶が,一族で芥川氏を称していた孫十郎を追って芥川山城に入り,60年(永禄3)まで三好政権の本拠とした。その後織田信長の畿内制覇の後,破却された。山城は標高182m,三方を芥川に囲まれた要害の地にあり,本丸・郭跡の石垣・土塁・堀切など,遺跡が残されている。
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