日本歴史地名大系 「花坂村」の解説 花坂村はなざかむら 和歌山県:伊都郡高野町花坂村[現在地名]高野町花坂細川(ほそかわ)村の西南、高野山の西方に位置し、ほぼ西南流する貴志(きし)川の谷間に集落が点在する。西は志賀(しが)村、西南は新城(しんじよう)村(ともに現かつらぎ町)に接する。小名に不動野(ふどうの)と矢立(やたて)があるが、矢立は細川村と双方よりの出村。「続風土記」は「古記に鼻底に作る、鼻底は岬底(はなぞこ)なるへし、此地諸山の尾岬(さき)集る谷底にて高野に登るも志賀及湯川に越ゆるも皆山の尾を登る、岬皆此谷に集まる故に岬底と呼ひしを後美名に改て花坂といひしなるへし」と記す。「後宇多院御幸記」の正和二年(一三一三)八月八日条に「鼻底辻辺ニシテ」とあり、応永三二年(一四二五)五月二六日付の天野社一切経会段米納日記(又続宝簡集)には「六箇七郷」の一村として「ハナ坂村」がみえ、一斗一升の段米を納めている。 花坂村はなざかむら 静岡県:田方郡伊豆長岡町花坂村[現在地名]伊豆長岡町花坂伊豆半島北部の村で、東の長岡村から山地に続く山の中腹に位置し、西は静浦(しずうら)山地を越えて内(うち)浦口野(くちの)村(現沼津市)。北条氏所領役帳に四貫五〇〇文豆州「花坂」とあり、御台所久保の所領があった。天正一八年(一五九〇)の伊奈忠次発給文書に「花坂之郷」とあったとされ(増訂豆州志稿)、一村の形態をなしていたと思われるが長岡村と一村であった。寛文三年(一六六三)当村からの訴えによって六五石余をもって分郷した(「花坂村分村覚」・同六年「花坂長岡用水新林争論」渡辺家文書)。 花坂村はなさかむら 福島県:会津若松市旧門田村地区花坂村[現在地名]会津若松市門田町面川(もんでんまちおもがわ)阿賀川東岸にあり、西の対岸は本郷(ほんごう)村(現会津本郷町)。北は松原(まつばら)新田村。松原新田村とその北の一堰(いちのせき)村の間にも当村の集落がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では大沼郡のうちに記され、高一二一石余。南青木組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高一四六石余。化政期の家数は南に一四・北の一区に二(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数一五(寺一)・人数八六(人員録)。同八年松原新田村・中島(なかじま)村と合併して岩見崎(いわみざき)村となり、岩見崎村は同一〇年面沢(おもざわ)村と合併して面川村となる。 花坂村はなさかむら 石川県:小松市旧能美郡地区花坂村[現在地名]小松市花坂町梯(かけはし)川中流左岸の山間部にあり、東対岸は五国寺(ごこうじ)村、西は丘陵となる。正保郷帳では高二三四石余、田方七町八反余・畑方五町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高二五〇石、免四ツ三分、小物成は山役二四〇匁・もぢ川役二四匁、畳表役七匁余(ほか七分退転)であった(三箇国高物成帳)。文化八年(一八一一)以来六兵衛(ろくべえ)山などで陶土が採掘され、九谷陶土の原料となった(加能郷土辞彙)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by