二本松城下(読み)にほんまつじようか

日本歴史地名大系 「二本松城下」の解説

二本松城下
にほんまつじようか

寛永二〇年(一六四三)二本松に入った丹羽氏の居城二本松城(霞ヶ城)城下町。丹羽氏は長重・光重の二代にわたり、山城伏見ふしみ(現京都市伏見区)をはじめ棚倉たなぐら(現棚倉町)、白河城を造り二本松に移っているので、二本松城とその城下町の経営はそれまでの経験の集大成であるはずであったが、丹羽氏の財政と二本松の地形的制約が重なり、完成された城下町を形成するまでには至らなかった。

〔加藤氏時代〕

丹羽氏が二本松に入る以前は加藤氏が三万石規模で城と城下町を経営していた。加藤氏時代の城下については、正保二本松城絵図(内閣文庫蔵)が唯一の史料である。この絵図をみると、畠山氏のきりヶ城を本丸とし石垣が描かれているが建物はない。山麓の平坦地には石垣をめぐらした館が描かれている。加藤氏の居館であり、丹羽氏も最初はここに住んだと思われる。居館の西手は本町もとまち谷、東手は鉄砲てつぽう谷といい、いずれも家臣の屋敷地となっている。町屋は主要道路に沿ってみられる。南の大壇おおだん方面から北上する道路沿いにさくら谷の人家が並び枡形がある。この枡形はのちの若宮わかみや冠木門付近と思われる。枡形を入ると若宮町である。若宮町西手丘陵上に若宮八幡宮があるため若宮町または若宮小路とよばれたが、絵図に若宮八幡は示されていない。若宮町に続いてさか町があり、坂道を上りつめると現在の郭内かくないに入る。そこは塗屋ぬりや町であり、なか町・しん町と続き、町屋の切れる所が枡形である。加藤氏時代の城下の中心は塗屋町・中町および新町である。塗屋町・中町の裏には侍屋敷があり、新町の裏手は足軽屋敷となっている。北の枡形はのちの竹田たけだ町御門付近と思われる。

〔丹羽氏の城下町経営〕

丹羽氏が一一万石余で二本松に移ったとき城と城下町は狭くて家臣を収容することができなかった。そのため正保三年(一六四六)幕府に築城と城下町経営を願出、慶安二年(一六四九)に工事を始め、明暦三年(一六五七)六月に一応の完成をみた(「丹羽光重年譜」・「丹羽光重年譜付録」二本松市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報