若宮八幡宮社(読み)わかみやはちまんぐうしや

日本歴史地名大系 「若宮八幡宮社」の解説

若宮八幡宮社
わかみやはちまんぐうしや

[現在地名]東山区五条橋東五丁目

五条通がひがし大路と交差する地点よりやや北西に鎮座祭神仲哀天皇・神功皇后・応神天皇で、昭和二四年(一九四九)には陶祖神椎根津彦しいねつひこ命が合祀された。旧郷社。もと左女牛西洞院さめうしにしのとういん(現京都市下京区)にあり、六条左女牛八幡、六条左女牛若宮などとよばれた。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔創建〕

創建は「二十二社註式」が「人皇七十代後冷泉院治八年天喜元年、依勅願御勧請、祖兼親奉行之、伊与守頼義御沙汰也」と述べ、天喜元年(一〇五三)、後冷泉天皇の勅願によって源頼義が勧請したとしている。社伝も、もと頼義が邸内に祀っていた八幡の若宮とし、「吾妻鏡」文治元年(一一八五)一二月三〇日条にも故廷尉禅室(源為義、頼義の玄孫)六条御遺跡と記されているから、源氏と密接な関係にあったことは間違いない。

〔源頼朝の保護〕

「吾妻鏡」によれば、源頼朝の寄進が相次いだ。文治元年一二月三〇日条では「令領諸国地頭職給之内、以土佐国吾河郡、令付六条若宮」と土佐国吾河あがわ郡が寄進され、大江広元の弟、季厳阿闍梨が別当職に任じられた。同二年四月造営事始があり、京都に特別な関係をもつ梶原景時・比企朝宗ら七名の有力御家人幕府政所が御殿拝殿鐘楼などの造営にあたり、八月一四日に遷宮が行われた(永和元年八月六日「栄賢注進状」国立歴史民俗博物館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報