茅野村(読み)ちのむら

日本歴史地名大系 「茅野村」の解説

茅野村
ちのむら

[現在地名]茅野市宮川みやがわ 茅野

東は長峰ながみね丘陵、北はさき村・横内よこうち村に接し、西は安国寺あんこくじ村から杖突つえつき峠、南は金沢かなざわ峠から金沢村に隣接している。村内北部はかみ川、南部はみや川があり、甲州道中(現国道二〇号)に沿い、御射山道みさやまみちが通じ、杖突道の分岐点にあたる。古くは千野ちの郷とよばれ、神使御頭之日記の天文九年(一五四〇)の条に「内県介 千野」とみえ、この年の上社内県の御頭うちあがたのおとう千野郷が務めている。慶長一五年(一六一〇)には下記の千野村新町立諸役免許証文が出され、この頃開通した甲州道中沿いの東茅野地籍に町づくりと新田畑開発が奨励された(茅野林野組合蔵)

<資料は省略されています>

この地域は古くから開けていたと推定され、遺跡に四ッ塚よつづか金鍔きんつば(ともに長峰丘陵南端の小丘陵)等の古墳があり、刀類・玉類・馬具等を出土し、諏訪郡の官牧である山鹿やまが大塩おおしお牧等との関係がうかがわれる。中世では大祝職位事書によれば、建武二年(一三三五)の条に「千野神主 白米三升 二百文」とあり、千野郷を支配する千野氏が大祝職位の神事の費用を負担している。


茅野村
かやのむら

[現在地名]美方町茅野

平野ひらの村の南、矢田やだ川の右岸にある。萱野とも書いた。当地で同川に注ぐ支流をさかのぼり、南東方の野間のま峠を越えて大笹おおささ(現村岡町)に下り、福岡ふくおか(現同上)に至る山道が通じていた。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「かやの」とみえ、当地には「かや野」氏や大月氏の一族が住していた。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)には「かやの村」とみえ、高一〇〇石。寛永一六年(一六三九)の知高帳では茅野、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では萱野とあり、ともに高一〇〇石。


茅野村
かいのむら

[現在地名]富士町大字古湯ふるゆ

萱野・貝野とも書き、古湯山村枝村である。古湯の西にあって貝野川をさかのぼった所、標高二八〇メートルほどの山村

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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