草深村(読み)くさぶかむら

日本歴史地名大系 「草深村」の解説

草深村
くさぶかむら

[現在地名]沼隈町草深

能登原のとはら村の西に位置し、西は内常石うちつねいし、南は瀬戸内海で、対岸島。東南流する山南さんな川の河口付近と東北側山際に集落がある。村内阿引あびきから磨製石斧が出土、弥生時代頃から人々の生活が営まれたものと思われる。中世には山南庄に含まれたと思われるが不詳。「西備名区」によれば天正一三年(一五八五)没落した伊予国河野家嫡流の河野兵部太輔通直および同刑部少輔通春が小早川氏の扶助によって当村に居住したという。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳に五七六・六四八石とある。寛文年間(一六六一―七三)に村内横引よこびきに唐樋門(県指定重要文化財)とそれに続く一千四〇間の堤防が築かれ、亀山かめやま八幡宮の麓まで干拓が行われ、いそ新涯とよばれた。


草深村
くさぶかむら

[現在地名]池田町草深

山洞やまほら村の北西にある。天正一七年(一五八九)一一月二一日付豊臣秀吉の美濃国御蔵入目録(内閣文庫蔵)に草ふか村三九七石余とみえる。慶長二年(一五九七)の池田野山年貢割帳(阿子田文書)によれば、入会山への立入馬数は大津谷おおつだに山に一〇匹、大谷おおたに山に二匹。慶長郷帳にみえる草須村三九七石余は当村と考えられる。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では幕府領正保郷帳では旗本加藤平内領で、田二八九石余・畑一〇八石余、ほかに山野年貢蔵入一石余があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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