日本大百科全書(ニッポニカ) 「備前検地」の意味・わかりやすい解説
備前検地
びぜんけんち
江戸前期の代官頭(がしら)伊奈備前守(いなびぜんのかみ)忠次(ただつぐ)が実施した天正(てんしょう)・文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)期の検地。初めはその通称により熊蔵縄(くまぞうなわ)、別に伊奈検地ともいう。大久保長安(ながやす)の石見(いわみ)検地と並ぶ代表的検地である。1589、90年(天正17、18)徳川氏の五か国総検地に始まり、関東入国後は、天正・文禄期を経て1609年(慶長14)に至る。検地の実施は、伊豆(いず)、武蔵(むさし)、相模(さがみ)、上野(こうずけ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)から遠江(とおとうみ)、尾張(おわり)にも及んだ。初めは6尺5寸(約1.97メートル)、のち6尺1分(約1.82メートル)の検地竿(ざお)を用い、6尺1分四方を1歩(ぶ)、300歩を1反(たん)とした。実際は家老格の大河内金兵衛(おおこうちきんべえ)や手代の袴田七右衛門(はかまだしちえもん)、新井忠右衛門(あらいちゅうえもん)らが行い、荒廃した農村の復興と生産力の正確な把握を目的としていたが、1602年の常陸の検地は「慶長の苛法(かほう)」とよばれ、領主取り分の増加を企てたともいわれる。備前検地は基本的には戦国期以来の名主(みょうしゅ)層の農業経営を容認しながら、彼らを年貢・夫役(ぶやく)の負担者に位置づけ、さらに他方では小農民の自立化を志向しながら、経営の保護と安定化をねらいとしたものである。
[村上 直]
『和泉清司著『伊奈忠次文書集成』(1981・文献出版)』