荒瀬村(読み)あらせむら

日本歴史地名大系 「荒瀬村」の解説

荒瀬村
あらせむら

[現在地名]阿仁町荒瀬

北流する阿仁川上流両岸一帯、およびそれに注ぐ小河川流域の広い山間部に集落が点在する。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一五三石とみえる。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」では戸数五〇軒、枝郷として荒瀬川あらせがわ二〇軒、櫃畑ひつばた七軒、茅草かやくさ二四軒、左山さやま六軒、笑内おかしない二二軒、根子ねつこ三〇軒、伏影ふしかげ一二軒、ヲハ(大鰐)淵三軒、比立内ひたちない三一軒、岩野目沢いわのめざわ七軒、幸屋渡こうやわたり一六軒、幸屋一七軒、大平おおだいら三軒、長畑ながはたけ六軒、巣生すおう四軒、下比立内しもひたちない一六軒、羽立はだち一六軒、西野にしの一六軒、鳥坂とりさか一六軒、打当うつとう一五軒、なか一八軒、戸鳥内ととりない一三軒、野尻のじり七軒、鳥越とりごえ五軒、大倉おおくら八軒、棚木沢たなきざわ八軒とあり、総戸数四〇〇軒余の大村であった。


荒瀬村
あらせむら

[現在地名]香北町有瀬あらせ

五百蔵いおろい村の東、物部ものべ川の北岸に位置し、東は西嶺にしのみね村。河岸段丘上の下有瀬しもあらせ物部川支流有瀬川の東岸斜面の奥有瀬おくあらせからなる。江戸時代は荒瀬・有瀬両様の表記を混用している。

天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳は「自是有瀬ノ村先ノ高五貫ト有」とし、二二筆三町六反四代一歩(田分二町八反余・畠屋敷七反余)すべてが「有瀬名 彦大夫扣」とある。天正一四年豊後国戸次へつぎ川で長宗我部信親とともに戦死した武士に有瀬彦右衛門があり、彦大夫はその一族であろう。同帳によれば有瀬彦大夫自身朴木ほおのき村に若干の給地をもち、同族に有瀬六良兵衛がいる。


荒瀬村
あらせむら

[現在地名]久留米市みやじん二―三丁目

筑後川中流右岸にあり、北に支流宝満ほうまん川が流れる。西は新宝満川(旧筑後川筋)を挟んで小森野こもりの村、南は宮地みやのじ村に接する。天正一三年(一五八五)と推定される正月二五日の大友氏家臣連署知行預ケ状写(筑後将士軍談)に長増山在番の城料として高良こうら山大宮司に付与された所領のうちにみえる「淡瀬二町」は当地と考えられる。久留米藩領古図に荒瀬村とみえる。本高は二四四石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一三四石余・役高四〇八石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高四一〇石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では畑田九町三反余・畑二二町二反余・居屋敷四反余。


荒瀬村
あらせむら

[現在地名]野津町はる 荒瀬

いち村の西、野津川西岸段丘上にある。当初南西方篠枝ささえだ村のうちであったらしく(「雑録」臼杵藩政史料)、正保・元禄・天保の各郷帳に村名はみえない。旧高旧領取調帳では高一一六石余。


荒瀬村
あらせむら

[現在地名]伊万里市黒川町くろがわちよう長尾ながお

大野おおの岳の北斜面に位置する。慶長絵図には「荒瀬村 高千十三石七斗四升三勺」とあり、花房はなぶさ村・波多川はたがわ真手野まての重橋じゆうばしにはそれぞれ「荒瀬ノ内」と注記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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