荒見庄(読み)あらみのしよう

日本歴史地名大系 「荒見庄」の解説

荒見庄
あらみのしよう

紀ノ川南岸、竜門りゆうもん山北麓にあり、建長八年(一二五六)六月日付の金剛峯寺衆徒愁状(又続宝簡集)に「荒見・水原村者、大師手印縁起之中也、而為粉河寺押領之」とみえる。次いで徳治二年(一三〇七)八月日付の阿河庄地頭披陳状(同集)に添えられた頼聖具書案には「縁起中心不知行所々事」のうちに「荒見庄山門領」「水原庄」などがみえる。空海のいわゆる御手印縁起に記された寺域の四至内とするのが高野山の伝統的主張であるが、鎌倉時代には不知行で、粉河寺の知行下にあったことは右の史料に明らかである。頼聖具書案は山門領とするが、粉河寺は山門末寺で、広義の山門領に入る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...

苦肉の策の用語解説を読む