蓮池村(読み)はすいけむら

日本歴史地名大系 「蓮池村」の解説

蓮池村
はすいけむら

[現在地名]土佐市蓮池

波介はげ川下流北岸に位置し、「土佐州郡志」に「東至高岡界東川、西至北地村、南至波介村、北限高岡村之西山・護摩谷又北地之正光・空木、東西三十六町余、南北十二町余」とあり、村内小村として芋岡、上町屋・中町屋・下町屋、福表、古市、了雲、明王院、谷山、中山、二本松山、西之寺山、保久川山、修徳をあげる。蓮池郷と称する場合もある。

平安時代末期に蓮池氏が居住したと伝え、「吾妻鏡」寿永元年(一一八二)九月二五日条に源希義を討った蓮池権守家綱の名がみえるが当地との関係は不明。中世には蓮池庄といわれ、「南路志」によると香美郡前浜まえのはま(長岡郡浜蚊居田村か)興善こうぜん寺にあったという貞治四年(一三六五)の大般若経奥書に「高岡郡蓮池庄八幡宮」と記され、有力国人大平氏が南北朝から戦国期に蓮池城に拠った。また永正三年(一五〇六)二月四日の熊野御師関係の文書(熊野那智大社文書)に「四国土左之国蓮池庄市後藤ノ子三郎衛門」とみえ、先達「たにの坊」や末院「明王院」があり、紀州熊野との関係が深かったらしい。


蓮池村
はすいけむら

[現在地名]上野市蓮池

上友生かみともの村の東。南の高山たかやま村東山中に発する高山川は喰代ほおじろの山中より西流する久米くめ川上流に当村久敷ひさしき辺りで合する。蓮池代はすいけだいは俗にショウゴンジと伝承される土地で、奈良―平安時代の竪穴住居跡が発掘された。建物がかなり計画的に配置され、墨書土師器・円面硯・青磁製塩土器などが出土し、かなりの豪族所在地か、官衙支庁跡と想像される。横山の蓮生よこやまのれんしよう(曹洞宗)には鎌倉末期の定印阿弥陀如来坐像石仏、応仁元年(一四六七)銘の石造五輪塔(完形でない)などがある。


蓮池村
はすいけむら

[現在地名]美川町蓮池町

大慶寺だいぎようじ用水の分流堂尻どうじり川河口の海岸沿いに位置し、南東西米光にしよねみつ村。「天文日記」および「賀州本家領謂付日記」天文五年(一五三六)閏一〇月一九日条に「蓮池村」とみえ、もと幕府奉公衆平賀氏の所領であったが、小田加賀入道に与えられ、小田氏は年貢納入の口添えを本願寺証如に依頼、これを認められている。正保郷帳では高一六二石余、田方一〇町四反余・畑方四反、新田高八六石余(免三ツ一歩五厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二三四石、免四ツ二歩、小物成は外海引網役二六匁(ほか一二匁は退転)・猟船櫂役一〇目(ほか三〇目は退転)・外海船櫂役六三匁(出来)であった(三箇国高物成帳)


蓮池村
はすいけむら

[現在地名]尾西市蓮池

北は冨田とみだ西五城にしいつしろの両村に接している。村の東北を美濃路通り奥村おくむら井筋が東から西、さらに南へ抜けている。概高一八四石八斗余で、天保一二年(一八四一)では、うち九五石六升余成瀬豊前、四八石八斗余上野小左衛門、三七石大島六右衛門の三人の給知となっている(天保村絵図)。「寛文覚書」の戸口三三軒・一七二人とあり、天保一二年では五五軒・二四四人とあり、寺は蓮容れんよう寺一軒で名古屋の聖徳しようとく寺末浄土真宗寺院である(同絵図)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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