日本歴史地名大系 「蔵本村」の解説 蔵本村くらもとむら 徳島県:徳島市旧名東郡地区蔵本村[現在地名]徳島市蔵本町一―三丁目・蔵本元町(くらもともとまち)一―三丁目・南蔵本町(みなみくらもとちよう)一―三丁目・佐古六番町(さころくばんちよう)・佐古七番町(さこななばんちよう)・佐古八番町(さこはちばんちよう)・南佐古六番町(みなみさころくばんちよう)・南佐古七番町(みなみさこななばんちよう)・南佐古八番町(みなみさこはちばんちよう)・加茂名町(かもなちよう)・佐古山町(さこやまちよう)佐古村の西、眉(び)山北麓にある。北は矢三(やそ)村・島田(しまだ)村、北境を田宮(たみや)川が蛇行して東流する。同川南方を伊予街道が通り、西方で北へ讃岐街道が分岐する。地名は、古くから商業が盛んで物資保管のための蔵があったことに由来するとされ、山(クラ)の下(モト)という意味とする説もある(佐古郷土誌)。現神山(かみやま)町勧善(かんぜん)寺所蔵の大般若経巻二二二の奥書には至徳四年(一三八七)九月二一日「阿州下倉本法勝寺」で書写とみえる。同じく巻三二一の奥書には嘉慶二年(一三八八)二月七日、「阿州名東庄倉本下市真仏寺」で書写したとある。ここにみえる「倉本下市」は名東庄の市と考えられている。近年、中世集落が検出された中島田遺跡の発掘調査の進展により、市町の様相を呈している同遺跡は、「倉本下市」にあたるのではないかとの意見が出されている。この中世村落は南北朝末期に栄え、室町中期頃には河道の変化などの自然条件の変化により市場の機能が果せなくなり、集落そのものが一部を除いて廃絶したと考えられている。 蔵本村くらもとむら 宮城県:白石市蔵本村[現在地名]白石市福岡蔵本(ふくおかくらもと)・西益岡町(にしますおかちよう)東は白石本郷、西南は鉢森(はちもり)山・花房(はなぶさ)山を結ぶ稜線で森合(もりあい)村・小原(おばら)村、北は八宮(やつみや)村と接する。西北は蔵王(ざおう)山麓の高原、東南は白石川の形成する河岸段丘の平地。観応三年(一三五二)一一月二二日の吉良貞家挙状(相馬文書)に相馬親胤は、貞和三年(一三四七)一〇月二二日「柴田郡倉本河」での伊達飛騨前司・田村庄司一族との合戦などに対して恩賞を請求しているが、この「倉本河」は、当地から柴田郡に流れる白石川と考えられている。天文七年(一五三八)の段銭古帳には「三貫仁百文御下館ふん くらもと」「仁貫四百廿文けんしゆん分 くらもと」と蔵入地の「五百文 くらもと」に三分されている。御下館は伊達稙宗側室の生母であるが、「けんしゆん」は不明。天正一九年(一五九一)蒲生氏郷領になり、同氏高目録帳(内閣文庫蔵)には田畑等級は上で「蔵元 七百六十四石四斗二升 源左」とあり蒲生郷成の知行地。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by