蔵村(読み)くらむら

日本歴史地名大系 「蔵村」の解説

蔵村
くらむら

[現在地名]野村町松渓まつだに

稲生いのう川上流域の山村。北・東・西を標高五〇〇―六〇〇メートルの山に囲まれ、南は鳥鹿野とじかの村に接する。宇和島藩領。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「蔵村 茅山有、日損所、小川有」とある。「墅截」に「蔵村之内白髯村」とあり、藩内では白髭しらひげ村は蔵村に属していた。また「大成郡録」では蔵村庄屋勘兵衛が鳥鹿野村・林乗りんじよう村・広田ひろた村の庄屋を兼任し、白髭村庄屋は与七郎となっている。したがって宇和島藩の元禄九年(一六九六)の一〇万石高直し当時の郷村の再編成で、白髭村は蔵村から分離独立したと考えられる。

蔵村は安永九年(一七八〇)松谷まつだに村と改称され嘉永三年(一八五〇)火災があって同四年松渓村と改められた。分離以前の太閤検地の石高は八〇〇石であるから、かなりの大村であった。

蔵村
くらむら

[現在地名]東由利町蔵

蛇行する高瀬たかせ川に沿って本荘領に通ずる道(現国道一〇五号)と、法内ほうない村の谷間を経て坂部さかべ村・八沢木やさわぎ村(現平鹿ひらか郡大森町)、たき(現大内町)に通ずる道とがこの村で接続する。

室町期末から戦国期にかけて、由利十二頭の下村彦次郎が、この地にもと館を築き下村しもむら郷を支配した。初め中里なかさと村とよばれ、正保三年(一六四六)の出羽国油利郡之内知行高帳(秋田県庁蔵)に高四三二石八斗三升二合で、そのうち畑は一二石二斗九升九合とあり、「水損有 旱損有 柴林有 新田有」と記される。

蔵村
つじのくらむら

[現在地名]小倉南区辻三つじみつ

合馬おうま村の北にある。むらさき川支流の辻蔵川の水源域。西は三嶽みつたけ村。南に宝積ほうしやく山、北にいわヶ岳がある。「ついのくら」とも。延宝五年(一六七七)の小倉藩地方知行帳(県史資料五)では辻蔵の高一四八石余が仁木知行分。郷村高帳では高一四七石余、うち新田高一石余。幕末の各村覚書では本高一五〇石余、田一一町六反余・畠三町九反余、物成六五石余、竈数九・家数一五・人数四三、牛七・馬六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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