薄衣村(読み)うすぎぬむら

日本歴史地名大系 「薄衣村」の解説

薄衣村
うすぎぬむら

[現在地名]川崎村薄衣

北上川東岸に位置し、北は三島みしま(三四六・三メートル)などの山。中央を東から西へ千厩せんまや川が貫流して北上川に注ぐ。北上川対岸は富沢とみざわ村・楊生よう(現一関市)東西気仙沼けせんぬま街道が通り、北上川の渡場があった。地名の由来については南面して気温が暖かく薄着で生活できるからとも、アイヌ語のウテキヌ(小高い丘)にちなむとも、北上川の朝靄が漂って薄い衣のようにみえるからともいわれ、天明六年(一七八六)八月四日当村検断紺野氏宅に宿泊した菅江真澄は「此すくのいほそく、あまの衣といふものを、いたくひめて持たり。このゆへ、こゝをうすきぬともいひ」などと記している(天明六年菅江真澄日記)

正法年譜住山記」には貞治二年(一三六三)四月二七日、「薄衣」の正阿弥が中田なかだ郷内一千刈の地を正法しようぼう(現水沢市)へ寄進したことがみえる。一五三〇年代頃の熊野山新宮勧進状(熊野速玉大社文書)によれば、薄衣の住人平重持が一貫文を紀伊熊野新宮に寄進している。元亀二年(一五七一)三月一四日岩淵近江守は黄海きのみ(現藤沢町)十六将じゆうろくしよ権現に対する薄衣の米倉千葉氏の妨げを停止している(「岩淵近江守書状写」黄海一明院文書)。天正七年(一五七九)三月一〇日富沢日向守の反乱の際の清水しみず(現西磐井郡花泉町)での戦功を賞し、葛西晴信から千葉源次郎に薄衣のうち三千刈が与えられた(「葛西晴信知行宛行状写」石越千葉文書)。同一四年と推定される六月一一日付の葛西晴信書状(岩大浜田文書)によれば、薄衣氏と争っていた米ヶ崎よねがさき(現陸前高田市)の浜田安房守(広綱)和解を申入れたので、晴信は仲介として専称寺を派遣した。しかし薄衣氏が難題をかけてきたので使いを引揚げたことを広綱に伝えている。これを不満とした広綱は同一六年葛西氏に反乱した。同年六月七日、この反乱の際の戦功を賞し、葛西氏から小野寺三郎左衛門尉に当地のうち三千刈などが加増された(「葛西晴信知行宛行状」藤沢小野寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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