改訂新版 世界大百科事典 「藤原真楯」の意味・わかりやすい解説
藤原真楯 (ふじわらのまたて)
生没年:715-766(霊亀1-天平神護2)
奈良時代の官人。もと八束(やつか)という。藤原房前(ふささき)の三子で,母は牟漏女王とも伝える。740年(天平12)従五位下から従五位上となり,右衛士督,式部大輔,左少弁,治部卿などを歴任し,750年(天平勝宝2)ごろには従四位上,ついで参議,大宰帥となった。この任中に行われた渤海使帰国の宴餞は大使をして称嘆せしめたという。時あたかも藤原仲麻呂政権の形成期にあたるが,その一門と姻戚関係をもちながら,橘諸兄宅の肆宴にも加わっている。中務卿を経て760年(天平宝字4)従三位となり,名を八束から真楯に改めた。翌々年中納言,764年9月の恵美押勝の乱にあたっては正三位勲二等に叙され,授刀大将となったという。766年1月同母兄藤原永手が左大臣に任ぜられると,代わって大納言兼式部卿となり,同年3月に没し,太政大臣が追贈された。〈度量弘深にして,公輔の才有り〉と評され,学問もよくし,山上憶良とも親交があった。
執筆者:佐藤 宗諄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報