平安中期の政治家。従(じゅ)一位、関白。太政(だいじょう)大臣に任じられ、忠義公と諡(おくりな)された。父は右大臣師輔(もろすけ)、母は藤原盛子(もりこ)。昇進は実弟兼家より遅れていたが、長兄の摂政(せっしょう)伊尹の早世によって権中納言(ごんのちゅうなごん)より一挙に内大臣に任じ、関白とされた(972)。のち太政大臣に進み、従一位に叙された。関白になるとすぐに女(むすめ)の子(こうし)(947―979)を円融(えんゆう)天皇の後宮に入れ、皇后とした。実弟の兼家とはひどく仲が悪く、種々圧迫を加えた。二条堀河に邸宅があったため堀川殿とよばれ、子は堀川中宮といわれた。兼通は勅撰(ちょくせん)歌人であったが、閨秀(けいしゅう)歌人本院侍従との恋愛は著名。貞元(じょうげん)2年11月8日に薨去(こうきょ)。
[角田文衛]
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925~977.11.8
堀川殿とも。平安中期の公卿。諡は忠義公。師輔の次男。943年(天慶6)従五位下。969年(安和2)参議,972年(天禄3)権中納言となる。弟の大納言兼家に位階・官職をこされていたが,この年,摂政伊尹(これただ)の後継をめぐる兼家との争いに勝利し内大臣となる。関白就任もこの時とみる説がある。その後,女の媓子(こうし)を円融天皇の中宮とし,974年(天延2)氏長者・太政大臣となる。977年(貞元2)病没の直前に関白・氏長者の地位を藤原頼忠に譲り,兼家に対しては兼官の右近衛大将から治部卿に左遷して打撃を与えた。兼家との権力争いは有名で「大鏡」「栄花物語」に逸話がみえる。没後に遠江国に封じられ,贈正一位。
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