藤原兼通(読み)フジワラノカネミチ

デジタル大辞泉 「藤原兼通」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐かねみち〔ふぢはら‐〕【藤原兼通】

[925~977]平安中期の公卿師輔もろすけの二男。長兄伊尹これただの病死後、弟の兼家関白職を争い、関白太政大臣となった。

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精選版 日本国語大辞典 「藤原兼通」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐かねみち【藤原兼通】

  1. 平安中期の公卿。関白太政大臣。師輔の子。兄伊尹(これまさ)病死のとき、弟兼家と関白を争ってその職を得、関白太政大臣となる。延長三~貞元二年(九二五‐九七七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原兼通」の意味・わかりやすい解説

藤原兼通
ふじわらのかねみち
(925―977)

平安中期の政治家。従(じゅ)一位、関白。太政(だいじょう)大臣に任じられ、忠義公と諡(おくりな)された。父は右大臣師輔(もろすけ)、母は藤原盛子(もりこ)。昇進実弟兼家より遅れていたが、長兄の摂政(せっしょう)伊尹の早世によって権中納言(ごんのちゅうなごん)より一挙に内大臣に任じ、関白とされた(972)。のち太政大臣に進み、従一位に叙された。関白になるとすぐに女(むすめ)の子(こうし)(947―979)を円融(えんゆう)天皇の後宮に入れ、皇后とした。実弟の兼家とはひどく仲が悪く、種々圧迫を加えた。二条堀河に邸宅があったため堀川殿とよばれ、子は堀川中宮といわれた。兼通は勅撰(ちょくせん)歌人であったが、閨秀(けいしゅう)歌人本院侍従との恋愛は著名。貞元(じょうげん)2年11月8日に薨去(こうきょ)。

角田文衛

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原兼通」の意味・わかりやすい解説

藤原兼通 (ふじわらのかねみち)
生没年:925-977(延長3-貞元2)

平安中期の公卿。右大臣師輔の次男。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。972年(天禄3)兄の摂政伊尹(これただ)が没したときは,弟の大納言兼家より下位の権中納言であったが,妹の故中宮安子(村上皇后,冷泉・円融母)の遺命を盾にとり,弟を抜き返して内大臣に昇り,ついで関白となった。以後,兄弟の間に暗闘がくりひろげられ,977年重病をおして参内し,弟兼家の関白就任を阻むため,従兄藤原頼忠に関白を譲った話は有名である。堀川殿と称された。諡号(しごう)は忠義公。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原兼通」の解説

藤原兼通
ふじわらのかねみち

925~977.11.8

堀川殿とも。平安中期の公卿。諡は忠義公。師輔の次男。943年(天慶6)従五位下。969年(安和2)参議,972年(天禄3)権中納言となる。弟の大納言兼家に位階・官職をこされていたが,この年,摂政伊尹(これただ)の後継をめぐる兼家との争いに勝利し内大臣となる。関白就任もこの時とみる説がある。その後,女の媓子(こうし)を円融天皇の中宮とし,974年(天延2)氏長者・太政大臣となる。977年(貞元2)病没の直前に関白・氏長者の地位を藤原頼忠に譲り,兼家に対しては兼官の右近衛大将から治部卿に左遷して打撃を与えた。兼家との権力争いは有名で「大鏡」「栄花物語」に逸話がみえる。没後に遠江国に封じられ,贈正一位。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原兼通」の意味・わかりやすい解説

藤原兼通
ふじわらのかねみち

[生]延長3(925).京都
[没]貞元2(977).11.8. 京都
平安時代中期の廷臣。師輔の次男。母は武蔵守藤原経邦の娘盛子。別称,堀河殿。弟兼家と権勢,ことに摂政・関白の地位をめぐって激しく争った。村上天皇の皇后であった妹安子からその生前,関白は兄弟の順序によって任じるようにという自筆の書状を入手しておき,天禄3 (972) 年長兄伊尹 (これただ) の病死に際して関白の地位についた。天延2 (974) 年氏長者,太政大臣,翌年従一位まで上った。死にのぞんでも兼家の関白就任をはばんでその地位を従兄頼忠に与えた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原兼通」の解説

藤原兼通 ふじわらの-かねみち

925-977 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
延長3年生まれ。藤原師輔(もろすけ)の次男。母は藤原経邦の娘盛子。天禄(てんろく)3年(972)兄伊尹(これただ)の死去で弟兼家と後継をあらそい,権(ごんの)中納言から一挙に内大臣,関白にのぼる。のち太政大臣,従一位。死にのぞんで兼家を左遷し,藤原頼忠に関白をゆずった。貞元(じょうげん)2年11月8日死去。53歳。贈正一位。通称は堀川殿。諡(おくりな)は忠義公。

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百科事典マイペディア 「藤原兼通」の意味・わかりやすい解説

藤原兼通【ふじわらのかねみち】

平安中期の高官。師輔(もろすけ)の子。弟の兼家と関白を争い,妹安子(あんし)(村上天皇の皇后)の遺命を盾にとって関白,太政大臣となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原兼通」の解説

藤原兼通
ふじわらのかねみち

925〜977
平安中期の公卿
師輔 (もろすけ) の2男。関白。弟兼家よりも官位の昇進がおくれたが,長兄伊尹 (これただ) の死後,兼家と争い,策謀によって関白となり,ついで太政大臣。死の直前,関白を頼忠にゆずった。

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