藤山村(読み)ふじやまむら

日本歴史地名大系 「藤山村」の解説

藤山村
ふじやまむら

[現在地名]日田市花月はなつき 藤山町

財津ざいつ村の東にあり、西部花月かげつ川が南流する。地内に慶長一七年(一六一二)銘の財津永順母の墓があり、同所は財津氏が拠点とした城跡とされる。財津城または藤山城とも。「日田造領記」などによると、郡老財津氏は日田永息の次男永清を祖とし、当時の惣領は財津長門守鑑永。応永三〇年(一四二三)一〇月四日の財津氏宛日田永秀書状(大友家文書録)にみえるのが早い例で、伊福民部兄弟の所領を堤氏が所望している。郡老指名を受けた鑑永の跡職は、永禄一三年(一五七〇)二月五日治部少輔に安堵されたが(「大友宗麟安堵状」日田記付録)、このとき五馬いつま(現天瀬町)役職や五馬庄諸給人裁判権も安堵された。天正八年(一五八〇)には財津永三が大友氏に背いた田北紹鉄を「五馬庄井手口松原村」で討取っている(「大友宗麟感状」大友家文書録)。「大友三代侍附」では侍大将財津何右衛門(永忠か)がみえる。同一七年一〇月の指出検地では、日田郡奉行領財津一属として田畠一〇二町九段余を知行する財津大学允以下二〇人・二七九町四段余があげられている(「矢野家伝」渡辺家文書)

藤山村
ふじやまむら

[現在地名]久留米市藤山町

耳納みのう山地西端部の明星みようじよう(三六二・五メートル)とび(二二三・六メートル)の西麓にあり、西は上津荒木こうだらき村。村境で久留米城下から当村を経由して上妻こうづま郡方面に至る山中さんちゆう街道と、福島ふくしま(現八女市)経由の豊後別路が分岐する。仏坂の甲塚ほとけざかのかぶとづか古墳(国指定史跡)は五世紀中頃築造の帆立貝式前方後円墳。「日本書紀」景行天皇一八年七月七日条にみえる藤山は当地とされる。応安八年(一三七五)正月日の山内通忠軍忠状(山内家文書/南北朝遺文(九州編)五)に「藤山御陣御共仕」とあり、一一月一二日に筑後川を南に渡った九州探題今川了俊の軍勢はいったん耳納山中の石垣いしがき(現田主丸町)に在陣、一七日に藤山に移ったらしい。

藤山村
ふじやまむら

[現在地名]亀田かめだ郡七飯町字上藤城かみふじしろ藤城ふじしろ

近世から明治一四年(一八八一)まで存続した村。久根別くねべつ川の上流域に位置する。吉野よしの(四八四・三メートル)・七飯岳(七七九・二メートル)などの山麓にあり、南西は函館平野に続く。古くは岡郷とよんだともいう(検考録)。成立は「多く羽州庄内之ものにして、公料の節より始りし村」(「蝦夷日誌」一編)、あるいは寛政六年(一七九四)陸奥国伊達だて郡の人が来住し、藤山の山名によって藤山村と号したなどと伝える(亀田郡各村沿革史)

藤山村
ふじやまむら

[現在地名]城南町藤山 藤山・南藤山みなみふじやま

西にし山・正達しようだつ山・高岳たかだけ山などの丘陵性山地に連なり、東部を浜戸はまど川が流れ、対岸に鰐瀬わにぜ村、北に塚原つかわら村・陳内じんない村、西に尾窪おくぼ村・東阿高ひがしあだか村がある。下方したがた(下藤山)からは須恵器・瓦器が出土した。「蜂須賀旧記」(事蹟通考)には「藤山十二町」の記載がある。中世には浜戸川近くの下方・古閑こが下原しもばるの三集落の開発が進んでいたと思われ、天文一九年(一五五〇)一二月八日の阿蘇惟豊判物(満願寺文書)に「豊田之内古閑之村七段三丈」とあるのは当村の古閑のことかもしれない。同二年二月一七日銘の板碑が観音堂境内にある。「国誌」にも「古閑ト云小村アリ」とみえ、古閑が本来一つの独立した集落であったことを想定させる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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