日本歴史地名大系 「藤谷村」の解説 藤谷村ふじたにむら 山口県:玖珂郡美和町藤谷村玖珂郡東北部、山代(やましろ)郷の南東、小瀬(おぜ)川西側に位置する近世初期までの村名。「大永ノ記録」(「山代温故録」所収)に山代地域五ヵ村の一つとして「藤谷畑」があり、「駄床・田の口その外畑々ともに」と記される。また永禄二年(一五五九)と思われる毛利隆元の坂新五左衛門宛文書(「閥閲録」所収林半兵衛家文書)には「為生見代所、藤谷村佐波え可遣之通」とみえ、伊勢神宮の御師が守札の配布先を記した覚書である中国九州御祓賦帳の元亀元年(一五七〇)分に「藤谷 安成七郎左衛門殿」とある。 藤谷村ふじがやむら 茨城県:真壁郡関城町藤谷村[現在地名]関城町藤(ふじ)ヶ谷(や)井上(いのうえ)村・辻(つじ)村・木戸(きど)村の西、舟生(ふにゆう)村・犬塚(いぬつか)村・板橋(いたばし)村・花田(はなだ)村の東を南北に細長く延びる大村で、村の東西両側にはかつての大宝(だいほう)沼から北上する谷津が走っている。戦国時代に多賀谷氏領となり、慶長七年(一六〇二)以降は天領(「乍恐口上書を以御注進御訴訟申上候御事」箱守房雄家文書)、寛文―延宝(一六六一―八一)頃は古河藩領となっていた(同文書)。寛文五年の古河藩の検地によると、水田は不明であるが、畠一一四町五反余・屋敷五町二反余であった(「畑屋敷検地帳」谷貝家文書)。元禄一一年(一六九八)村の南部が分離して関館(せきのたて)村が成立、同時に本村は天領と四人の旗本の相給地となった(「済口証文」箱守房雄家文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by