蜷木村
になぎむら
[現在地名]宇佐市蜷木
寄藻川下流西岸の宇佐台地上にある。北は松崎村、西は西大堀村、南は和木村。文政年中(一八一八―三〇)に東隣の南鶴田新田が成立するまでは湾入する周防灘(寄藻川の河口)に面していた。中世は封戸郷の内で、村内には乙松・糸永などの名や亀木・奈良迫などの地があった。また史料には美奈木・皆木ともみえるが、現在も土地の古老たちは「みなぎ」と発音する。西貝にある放生塚(蜷塚)は宇佐宮放生会(現在の仲秋祭)神事のとき海中に放つ蛤・蜷を神事に先立って置く所である。井ノ上・井場からは多くの石棺や甕棺群が出土、新池には六世紀末とされる須恵器の窯跡がある。
元亨二年(一三二二)九月日の宇佐宮神官某申状写(宮成文書)に「

村小歳行・奈良迫田畠屋敷等」ほかがみえ、盛兼への相続に対する安堵の下知を求めている。貞和三年(一三四七)九月宇佐宮寺供僧盛彦は「封戸郷内安則名・小利行・蜷木村内奈良迫田畠屋敷」「蜷木村小利行・奈良迫荒野田畠屋敷等」ほかの安堵の下題を求めている(「宇佐宮寺供僧盛彦申状」宮城文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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