改訂新版 世界大百科事典 「西ウイグル王国」の意味・わかりやすい解説
西ウイグル王国 (にしウイグルおうこく)
9世紀後半から13世紀末まで,トゥルファン(吐魯番)盆地を中心とし,天山北麓の牧草地帯をも組み込んで形成されたウイグル族の王国。その領域は最大時には西部天山山脈一帯にまで及び,天山ウイグル王国とも呼ばれる。9~11世紀のころにはビシュバリクも重要な都市であったが,その後はカラホージョが王城として機能した。中国側にはオアシス都市ごとに,都市名を冠して西州(高昌)回鶻,亀茲回鶻などとして,また前者は王名をとって阿薩蘭(アルスラン=獅子)回鶻としても知られた。王号は当初ハーン(汗)ともいったが,のちにイディクートidiqut(イドゥク・クートIduq qut)と称された。12~13世紀の史料によれば,地主層が仏教寺院勢力とともに有力者層を形成し,その管理のもとにあるウイグル農村社会には奴隷身分の者も数多くいたことがわかる。13世紀初め,チンギス・ハーンがモンゴル高原から台頭してくると,イディクートがその第5子に列せられ,領地は安堵されたが,モンゴルの西征が進む中でウイグル人たちの多くはモンゴル王権に直属し,軍事・行政とりわけ文化的才能を生かして,モンゴル世界帝国の創出に大きな役割を果たした。しかし,王統とその領地はモンゴル王族間の対立・抗争に左右され,13世紀末にはイディクートが甘粛方面に去って王国は消滅した。王国内では東西諸文化の統合・混在のもとで,とくに仏教文化が繁栄し,ベゼクリク千仏洞壁画や高昌故城などにその影を残している。
執筆者:梅村 坦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報