高昌(読み)こうしょう

日本大百科全書(ニッポニカ)「高昌」の解説

高昌
こうしょう

中国、新疆(しんきょう/シンチヤン)ウイグル自治区、トゥルファン盆地に栄えたオアシス国家。且渠(そきょ)氏より(きく)氏に至る5王朝の漢人王国(442~640)と、ウイグル人が支配者であった王国(西ウイグル国、9~13世紀)とがある。前者は突厥(とっけつ)などの遊牧勢力下に国を維持しつつも入植人がこの王国の指導権を握り、政治、社会諸制度の基幹に中国のそれを導入して漢文化とイラン風文化などが混有する特異な文化圏を形成した。カラ・ホージョは当時の都城址(し)。アスターナなどの古墳群も当時の漢人官僚の墓区で、そこからは大量の漢文文書、墓誌を出土している。後者は遊牧ウイグル帝国の崩壊後その遺民が建国したもので、高昌回鶻(こうしょうウイグル)、阿厮蘭回鶻(アルスランウイグル)などともよばれ、トルコ人が中央アジアに定着化する端緒を開いた。ベゼクリク千仏洞の仏教芸術などに高度な文化がうかがえる。

[白須浄眞]

『山田信夫著「トルキスタンの成立」(『岩波講座 世界歴史6 古代6』所収・1971・岩波書店)』


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旺文社世界史事典 三訂版「高昌」の解説

高昌
こうしょう

5〜7世紀にタリム盆地北東のトルファン地方に存在した漢人の植民国家
前1世紀に漢王朝が高昌壁 (こうしようへき) (カラ−ホージョ)に屯田兵を置いたのがその起源。中国本土が混乱すると,避して移住する者も多く,東西交渉の要地となった。北魏が北涼を滅ぼすと,その残党は高昌に逃れ,450年高昌国として独立。640年に併合されるまで存続し,特異な文化を形成した。

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百科事典マイペディア「高昌」の解説

高昌【こうしょう】

5―7世紀にタリム盆地東北のトゥルファンにあった漢人の植民国家とその都城名。前1世紀に前漢が高昌壁(カラホージョ)に屯田して以来中国と交渉をもち,中国が混乱すると難を避けてここに移住するものが多かった。特に麹(きく)氏高昌国(498年―640年)は中国文化と西方および北方文化を融合した特異な文化を形成した。

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精選版 日本国語大辞典「高昌」の解説

こうしょう カウシャウ【高昌】

五世紀から七世紀まで、中国新疆ウイグル自治区トルファン(吐魯蕃)地方に栄えた国およびその都城。前漢に移住した漢人の子孫が、五世紀半ばにイラン系民族の上に建てた植民地王朝。沮渠(そきょ)氏から麹(きく)氏まで五王朝にわたる。東西交通の要所で、中国諸王朝との交渉が激しい。六四〇年唐に滅ぼされた。

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世界大百科事典 第2版「高昌」の解説

こうしょう【高昌 Gāo chāng】

中国,新疆ウイグル自治区の東部天山山脈南麓を占めるトゥルファン地方を中国が名づけた地名ないし国名。《漢書》に〈高昌壁〉として初現し,漢は戊己校尉(ぼきこうい)を置いて車師前国に勢力を及ぼした匈奴をおさえた。327年(建興15)前涼が高昌郡を置き,その後西涼,北涼も勢力範囲とした。柔然が北涼の残余政権を滅ぼすと,闞伯周(かんはくしゆう)を高昌王とし,ついで・馬・麴(きく)の漢人が王を称した。麴氏は498‐640年に麴氏高昌国を建て,西突厥(とつくつ)が天山北方に勃興すると姻戚関係を結び,一方,北周・隋とも連和した。

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