改訂新版 世界大百科事典 「トゥルファン」の意味・わかりやすい解説
トゥルファン (吐魯番
)
Turfan
中国,新疆ウイグル(維吾爾)自治区の東部,かつての西域北道沿いにあるオアシスの町。Turpanとも表記する。ウルムチ(烏魯木斉)の南東およそ110km,トゥルファン盆地の北縁に位置する。天山山脈の東側にすり鉢状に落ちこんだ南北60km,東西120kmのトゥルファン盆地は,中国の最低地として知られ,盆地の底にある艾丁(がいてい)湖の湖面は標高-154m,その深さは-399mの死海についで世界でも2番目である。《西遊記》で有名な火焰山の地であり,元代に火州と呼ばれたことが象徴するように,夏の暑さが厳しく,最高気温が40℃をこえる日が1年に40日近くある。また降雨量も少なく風の強い場所としても有名である。降雨量が極端に少ないので,天山山脈の雪どけ水を引いてくる水利工事が古くから行われた。漢字で〈坎児井〉と書かれる,カナート(カレーズ)という地下灌漑水路が300あまりも掘られ,近年では15年の歳月をかけて延々と掘られた〈人民大渠〉と呼ばれる運河が雪どけ水をたたえている。また激しい熱風を防ぐために道路の両側などに三重四重に植林した防風林の並木が美しい。トゥルファン県の人口は17万で,ほぼ7割を占めるウイグル人は,多くがイスラム教徒である。住民のうち80%以上が農業人口で,特産品としては綿花とブドウとハミ(哈密)ウリが挙げられ,とくに種なし白ブドウは干しブドウにされて外国にも輸出されている。
トゥルファンの周辺には,歴史的な各時代の都城址や,古墓群が散在し,この地がシルクロード上の要地であったことから,東洋史研究の一宝庫と目されている。都城址としては,トゥルファン県の西およそ10kmの地にある交河古城址と,南東およそ45kmの火焰山の南麓にある高昌古城が双璧であり,石窟としては県城の北東45kmの火焰山北麓に沿ったムルトゥク峡谷にあるベゼクリク石窟と,東40kmの地にあるセンギム・アギヌ石窟など,古墓群としては高昌古城の北1kmの地にあるアスターナとカラホージョ,それに交河古城周辺の古墓群がある。これらのうち,ヤルホトとも呼ばれる交河古城は,その名のごとく,城の東西を二つの河川によって取り巻くように挟まれた台地の上にある山城で,天然の要塞になっているために城壁のないのが珍しい。南北の長さ1650m,東西の幅は最も広い所で300mあり,荒野に浮かぶ航空母艦の印象を与える。漢代に車師前王国がここに都をおいて以来,トゥルファン盆地の政治の中心地であり,高昌国が興って政治の中心は高昌城に移りはしたが,交河郡あるいは交河県の治所としての地位を保ち,元代末期に廃城となった。交河城の建築遺構は,この島形台地の南端から北に向かって1kmの範囲内にあり,城内中央部を南北に幅10m,長さ350mの大道が走り,その北端に大寺院があり,大道の西部に規模の小さい寺院が,東部に庶民の住宅地があった。この古城の最大の特徴は,大地を下に掘って建物を建造したことであって,壁には地層の縞がはっきり見える。
カラホージョとも呼ばれる高昌古城は,5世紀から7世紀にかけて漢人による独立の仏教王国を建てた高昌国の都城で,周囲5km余の方形の外城は,高さ11.5mに及ぶ城壁もよく保存され,シルクロードに残る最大規模の遺跡として知られる。宮城が外城の最北部に位置し,内城が外城の中心部にある。玄奘(げんじよう)がインドへの求法の旅の途中に約1ヵ月滞在した寺院跡は南西の隅にある。都城址や石窟などの考古学ないし美術史の宝庫は,19世紀にロシアの学者や探検家によって紹介されたが,20世紀に入ると,ドイツのグリュンウェーデル,ル・コックによる本格的な調査と発掘が行われ,またイギリスのスタイン,日本の大谷探検隊などが,古墓などからの出土品をそれぞれの国に将来して,敦煌につぐ西域文化および美術資料の豊富さを世界に示すことになった。ドイツの探検隊によって紹介されたベゼクリク石窟などの仏誓願図の壁画は,今も美術史や仏教史の研究者たちの関心をひいている。とくに古墓群出土の文書に関しては,すでに大谷探検隊やドイツの探検隊によって一部が発掘され,多数の古文書の断片が発見されていたが,中華人民共和国は1959年から75年にかけて,アスターナとカラホージョを中心に13回にわたる大規模な発掘工作を行い,456座の古墓のうち合わせて118座の古墓から,漢文文書およそ1600点を発掘した。それらの文書は,整理されて《吐魯番出土文書》と題して刊行されている。これら古墓から発掘されたトゥルファン文書は,随葬衣物疏や告身の写しといった埋納文書のほかは,被葬者の冠帯や靴などにはられた,裁断された官文書などの廃紙の多いのが特徴的である。隋・唐時代の中国社会の実態を究明する上で重視されてきた敦煌文書の場合は,偶然に石室に残っていたもので,今後の新発見が望み薄なのに対して,トゥルファン文書の方は,今後も古墓や寺院址の発掘にともない増加が大いに期待されている。
執筆者:礪波 護
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報