西久保村(読み)にしくぼむら

日本歴史地名大系 「西久保村」の解説

西久保村
にしくぼむら

[現在地名]茅ヶ崎市西久保・鶴が台つるがだい

小出こいで川を隔てて萩園はぎその村の東、東は円蔵えんぞう村と接し、北を大山道が走る。天正一九年(一五九一)の石川永正への知行宛行状(県史八)に「弐拾九石六斗 懐嶋本社之内」、正保国絵図には「本社村」とある。慶安三年(一六五〇)三月二八日の浜之郷村鶴嶺八幡社・佐塚明神社縁起(県史八)に「西窪之村」、延宝五年(一六七七)稲荷社と山王社の争論に関する「定置手形之事」(鈴木文書)に「西久保村」の名がみえ、元禄郷帳は「円蔵村之枝郷古は本社村」と記す。


西久保村
にしくぼむら

[現在地名]猪苗代町磐根いわね

行津なめつ村・桜川さくらがわ村の南、猪苗代湖北岸の平坦部に位置し、東は三城潟さんじようがた村。南流する桜川当地で猪苗代湖に注いだ。川西組に属し、二本松街道の脇道が通る。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では猪苗代郡のうちに西窪とみえ、高四〇〇石余。寛永一九年(一六四二)には本田高四〇〇石余・新田高七四石余(猪苗代町史)


西久保村
にしくぼむら

[現在地名]赤堀町西久保

現赤堀町のほぼ中央、はや川と鏑木かぶらき川の間の低平な台地上に位置。西は鏑木川を境に今井いまい村、南は国定くにさだ村・上田かみだ(現東村)、東は曲沢まがりさわ村。寛永二年(一六二五)「勢田郡西窪村」四四六石余が小菅八郎に与えられた(「徳川家光朱印状」熊谷文書)。寛文郷帳では田方三四石余・畑方一七八石余・林高一一石余、旗本牧野領。近世後期の御改革組合村高帳では上総一宮藩領、家数九一。明治一〇年(一八七七)頃の家数一〇〇(うち社一・寺一)・人数三七三、牡馬三七・牝馬三、荷車五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android