西多田村(読み)にしただむら

日本歴史地名大系 「西多田村」の解説

西多田村
にしただむら

[現在地名]川西市西多田・西多田一―二丁目・多田院ただいん一―二丁目・湯山台ゆやまだい南野坂みなみのざか一―二丁目・錦松台きんしようだい萩原台西はぎわらだいにし

萩原はぎわら村の北に位置する。「住吉大社神代記」豊島てしま郡城辺山の条に「田田邑」とあり、百姓が開耕した地という。当地および東多田に比定される。村内のしろ山は「摂陽群談」にいう旗指山で、源満仲が旗を立てたことに由来するという。

〔中世〕

多田庄多田本郷のうちで、多田院に寄進された田地に西多田の地名が多くみられる。応安元年(一三六八)馬三郎が多田院千手観音に米二石二斗で永代売却した永手作田は「西多田たか田」にあった(同年一二月一三日「右馬三郎売券」多田神社文書)。応永二年(一三九五)多田院千部経料田として顕如が多田郷内の「西多田アツ物」の一反を寄進している(同年三月一四日「顕如寄進状」同文書)。同二九年に開孫四郎が多田院真珠坊に西多田村開屋敷畠一反を寄進している(同年一一月三日「開孫四郎寄進状」同文書)


西多田村
にしただむら

[現在地名]姫路市山田町多田やまだちようただ

多田村の西に位置し、西光寺野さいこうじの台地中央に立地する。江戸時代初期は多田村に含まれ、延宝四年(一六七六)に分村したという(元文二年「村明細帳」多田自治会蔵)。この頃野田のだ村も多田村から分村したものと考えられる。貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)に村名がみえる。元禄郷帳には「古ハ多田村」と注記され、高二一六石余。元文二年(一七三七)の前掲村明細帳では本田・新田合計高三五〇石余、うち村方百姓三八人所持三一四石余・東多田(多田)村百姓一八人出作三五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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