日本歴史地名大系 「多田村」の解説
多田村
ただむら
- 千葉県:佐原市
- 多田村
下総台地北部に位置し、北は
〔中世〕
田多・田太とも記される。嘉承―長承(一一〇六―三五)のものとみられる香取社大禰宜大中臣真平譲状(香取文書、以下中世の記述では断りのない限り同文書)に「限北太田・吉原・大畠堺」とみえ、香取社領
多田村
ただむら
〔中世〕
永仁五年(一二九七)八月日の御所大番役定書案(九条家文書)に「かけやまのたゝむ
多田村
ただむら
多田村
ただむら
- 山口県:岩国市
- 多田村
東流する
今川了俊は応安四年(一三七一)鎮西探題となって九州に下ったが、その著「道ゆきぶり」に、「これより周防のさかひと申、今夜は多田といふ山ざとにとゞまりて、朝にまた山路になりぬ」と記している。当時山陽道の要所であったらしい。近世初期の山陽道は関戸境から山道へ入り、多田の
多田村
ただむら
多田村
ただむら
多田村
ただむら
多田村
ただむら
多田村
おおだむら
多田村
ただむら
多田村
ただむら
左右師孫四郎が三貫三三二文、縫詰神山が一三貫文、奈良弥七が二六貫九五〇文と一〇貫文、黒沼が二〇貫文、組壗師が七貫二〇〇文、御家中衆の畊月斎が一五貫文、宝寿寺の寺領が七貫文である。
多田村
ただむら
東端を
多田村
ただむら
多田村
おおたむら
多田村
ただむら
多田村
ただむら
多田村
ただむら
多田村
ただむら
多田村
ただむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報