日本歴史地名大系 「西大塚村」の解説 西大塚村にしおおつかむら 大阪府:松原市西大塚村[現在地名]松原市西大塚一―二丁目・西大塚町・上田(うえだ)六丁目・立部(たつべ)三丁目松原村の東、立部村の北にある。大塚山(おおつかやま)古墳の西側にあり、古墳中央が境界で東大塚村(現羽曳野市)に接する。古墳の環濠である西(にし)池と、西の丘陵上に帯状に連なる今(いま)池・小治(おじ)ヶ池・樋野(ひの)ヶ池の間に挟まれた狭い地域に集落がある。古代丹比(たじひ)郡丹下(たんげ)郷(和名抄)のうち。延元三年(一三三八)一〇月日の高木遠盛軍忠状(和田文書)に同二年八月一八日の合戦を記して「押寄丹下城致合戦、焼払近隣在家畢」とあり、また翌三年三月八日のこととして「属和田左兵衛尉正興之手、相向丹下城及数日致合戦畢」とある。 西大塚村にしおおつかむら 静岡県:浜松市旧長上郡・豊田郡地区西大塚村[現在地名]浜松市大塚町天竜川の中洲に形成された鶴見(つるみ)輪中の西縁に位置。文化一二年(一八一五)の天竜川御普請絵図(浜松市博物館蔵)は、集落の東に三郎五郎(さぶろうごろう)新田を描き、さらにその東、鶴見輪中の東縁にも西大塚村の地名を記すが、すべて畑地で集落はない(浜松市博物館蔵)。掛塚(かけつか)輪中(現竜洋町)の北端に東大塚村(現同上)がある。中世は蒲(かば)御厨に属し、東大塚村とともに大塚村・大塚郷などとして推移した。寛喜三年(一二三一)以前の源氏女申状(民経記寛喜三年三月記紙背文書)に飯田(いいだ)郷内「鶴見・大□両所」とみえ、「大□」は大塚のことと推定されている。これに従えば、当時は飯田郷に属し、本主延平より嫡子忠俊に与えられた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by