西富田村(読み)にしとみだむら

日本歴史地名大系 「西富田村」の解説

西富田村
にしとみだむら

[現在地名]本庄市西富田

本庄台地の末端に近く、小規模な帯状沖積低地が横切る。長雨の後に西の賀美かみ久上ぐじよう(現上里町)から湧出する久上水の流下、あるいは湧出によって一時的に流路を形成する微低地が幾筋も北東方向に延びる。南部は水田地帯で、女堀おんなぼり川の北岸に集落、以北は畑地域となり、北西に西富田新田、北端二本松にほんまつの二集落がある。南部の水田には条里遺構が残っていたが、圃場整備により消滅。東は本庄宿と東富田村。中世には児玉党富田氏の名字の地と推定される富田村(富田郷)と称したとみられ、中世末期頃に当村と東富田村に分村したと考えられる。天正二〇年(一五九二)三月、徳川氏は「西富田郷之内」で一〇石余を武川衆に、「西とみた郷内」で二五九石余を武川衆を率いた折井九郎次郎(次忠)・同九郎三郎(次吉)に宛行っており(記録御用所本古文書)、同時に「とみ田之郷」の存在が記されることから、当時すでに分村していたとみられる。


西富田村
にしとみだむら

[現在地名]四日市市西富田二―三丁目・蒔田まきた二―四丁目・川北かわきた一丁目・しもさざらい町・西富田町十志じゆうし

下之宮しものみや村の東にあり、東海道に面する。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳に「当知百貫文六拾七貫六百朝明郡西富田郷内、此外不足」と出、冨田七助の知行地であった。江戸時代は桑名藩領。文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳によれば、本高のほか一五石余の新田高がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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