西山拙斎(読み)にしやませっさい

精選版 日本国語大辞典 「西山拙斎」の意味・読み・例文・類語

にしやま‐せっさい【西山拙斎】

江戸中期の儒者。名は正。字(あざな)は士雅。備中国(岡山県)鴨方の人。岡孚斎や那波魯堂に学び、篤く朱子学を奉じた。柴野栗山と親しく、勧告して寛政異学の禁をなさしめた。郷里に欽塾を開き、生涯仕えなかった。詩は白居易を宗とし、六如上人らと詩窮社を結び、和歌は澄月に学んだ。著「間窓瑣言」「拙斎詩鈔」「芳野紀行」など。享保二〇~寛政一〇年(一七三五‐九八

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デジタル大辞泉 「西山拙斎」の意味・読み・例文・類語

にしやま‐せっさい【西山拙斎】

[1735~1798]江戸中期の儒学者。備中びっちゅうの人。名は正。あざなは士雅。大坂医学と儒学を修め、郷里で塾を開いて育英に任じた。著「間窓瑣言」など。

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朝日日本歴史人物事典 「西山拙斎」の解説

西山拙斎

没年:寛政10.11.5(1798.12.11)
生年:享保20.8.17(1735.10.3)
江戸中期の儒学者,漢詩人。名は正,字は士雅,号は拙斎,石顛,緑天。備中(岡山県)鴨方の人。寛延3(1750)年大坂に赴き,医を古林見宜に,儒を岡孚斎とその外孫那波魯堂に学んだ。朱子学を奉じ,安永2(1773)年郷里に欽塾を開いて育英に任じ,高潔な人格を称された。幕府儒官柴野栗山に「答客問」の一書を送り程朱以外の異学の禁を説いた。菅茶山,頼春水らと交わり,詩は白楽天を宗として,京都で六如上人らと詩窮社を結んだ。和歌を学び,石を楽しんだ。著書は『間窓瑣言』『拙斎詩鈔』他,稿本多数。<参考文献>花田一重『西山拙斎伝』

(水田紀久)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西山拙斎」の解説

西山拙斎 にしやま-せっさい

1735-1798 江戸時代中期-後期の儒者。
享保(きょうほう)20年8月17日生まれ。岡白駒(はっく),那波魯堂(なわ-ろどう)にまなび,安永2年郷里備中(びっちゅう)(岡山県)に塾をひらく。朱子学を信奉し,寛政異学の禁を擁護した。寛政10年11月5日死去。64歳。名は正。字(あざな)は士(子)雅。別号に至楽居。著作に「拙斎詩文集」「閑窓瑣言」など。

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367日誕生日大事典 「西山拙斎」の解説

西山拙斎 (にしやませっさい)

生年月日:1735年8月17日
江戸時代中期の儒学者;漢詩人
1798年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の西山拙斎の言及

【寛政異学の禁】より

…当時,徂徠学派,仁斎学派,折衷学派の流行に対して幕府の林家塾は不振の状態であり,朱子学擁護論が安永(1772‐81)ごろから出始め,松平定信の老中就任によって実現した。頼春水,尾藤二洲,柴野栗山,古賀精里,西山拙斎らの主張,とくに西山拙斎の定信への建白が強かったという。この通達を一般学界に対する禁令ととって,江戸では冢田大峰,市川鶴鳴,豊島豊洲,亀田鵬斎,山本北山ら,関西では皆川淇園,巌垣竜渓,村瀬栲亭,佐野山陰,片山北海,赤松滄洲らの猛反対があった。…

※「西山拙斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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