日本歴史地名大系 「西嶽村」の解説 西嶽村にしだけむら 宮崎県:都城市西嶽村[現在地名]都城市美川町(みかわちよう)・高野町(たかのちよう)・御池町(みいけちよう)・夏尾町(なつおちよう)・吉之元町(よしのもとちよう)・関之尾町(せきのおちよう)前川内(まえかわち)村から北西方向へ大きく広がった山岳地帯で、霧島高千穂峰から御鉢(おはち)の南壁面を北部境界とする。現市域の北西方に突出した地域を占め、地形はほぼ正方形。北部は標高平均五〇〇メートルの溶岩、中央は砂岩の植林、南部は植林と畑作地で傾斜し起伏に富み、全面積の三分の二がシラス、ボラ層からなる。集落は南東へと流下する千足(せだらし)川・荒川内(あらかわち)川・渡司(わたし)川・馬渡(まわたり)川などの河川沿いに散在する。西嶽の地名は島津庄の東方にあたる鰐塚(わにつか)山系に対する、西の霧島連山の意味に由来するという(西岳風土記)。五口六外城のうち安永(やすなが)郷に属した。慶長一七年(一六一二)の知行目録(都城島津家文書)では安永五千五一四石余のうち。その後分村したとみられるが、寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳など幕府提出の郷帳類に村名はみえない。「三州御治世要覧」には当村と中霧島(なかきりしま)村(現山田町)に「前ハ安永村ノ内」と注記があることから、幕府提出の郷帳類では中霧島村とともに安永村表高二千八三七石余として扱われたことがわかる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by