西
戸村
にしならどむら
[現在地名]谷和原村西楢戸
田村の南、筑波稲敷台地西辺に位置し、台通用水が貫流。古くは東楢戸村と楢戸村を形成していた(新編常陸国誌)が、「寛文朱印留」には西楢戸村とあって河内狭山藩北条氏領。正徳二年(一七一二)土浦藩土屋氏領(谷原上郷組)となり廃藩置県に及ぶ。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)の村高四六〇・〇七石。村内には真木之木・井戸下・田村谷津・新田畑・西之崎・上坪・中坪・新田・舟戸・仲田・中組・坂下・塚下・坂塚・立下・井戸手・馬置坪・小目作・狸穴・細久保・原山・後田・大堀・北後などの小字がある。
西戸村
さいどむら
[現在地名]東条町秋津
常田村の北東、東条川上流右岸に位置する。東条谷の最奥部で播磨の最東端である。文永二年(一二六五)一一月三日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書(大川瀬住吉神社文書)には、大川瀬(現三田市)の西限を「西ハサイトノ一マツ」とし、「東条サイトツノエタユフ子ムラ」ともある。この「サイト」は西戸をさし東条内の村であったと解される。
西戸村
さいどむら
[現在地名]毛呂山町西戸
箕和田村の東、越辺川左岸低地に立地。古くは小田原北条氏に仕えた道祖土氏が住したことから道祖土と記した。のち改字したという(風土記稿)。当村は天正年中(一五七三―九二)に黒山村(現越生町)の修験山本坊が開発したもので(元文三年「山本坊寺領書上」相馬家文書)、全村を山本坊一人が名請していたという(元文三年「山本坊人別帳一判等願」同文書)。元和元年(一六一五)百姓一五軒に耕作させ、同二年山本坊が当地に移転。同六年検地があり、入西郡西戸村御縄帳(同文書)では高二五〇石、うち五〇石は山本坊朱印地。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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