西本郷村(読み)にしほんごうむら

日本歴史地名大系 「西本郷村」の解説

西本郷村
にしほんごうむら

[現在地名]岡崎市西本郷町

矢作川右岸の肥沃な沖積地と、碧海へきかい台地との中央部自然堤防上に立地。北は宇頭うとう村、東は暮戸くれど村・東本郷村、南は冨永とみなが村、西は碧海台地崖端上の東別所ひがしべつしよ(現安城市)

東本郷とともに「和名抄」所載の古代郷碧海あおみ谷部はせべ郷に比定される。景行天皇の皇子五十狭城入彦命の末裔長谷部氏の来住説がある。「続日本紀」神護景雲二年(七六八)九月一一日条に「得参河国碧海郡人長谷部文選所献白烏」とあり長谷部文選は同年に瑞祥により少初位上と正税五〇〇束を受けている。


西本郷村
にしほんごうむら

[現在地名]上月町本郷

平尾ひらお村の西に位置し、幕山まくやま川が東流する。同川沿いの山裾を古代―中世の美作道が通る。慶長国絵図に本郷村・西本郷村がみえる。江戸時代の領主の変遷は寛永一七年(一六四〇)までは上月村に、以後は中山なかやま村に同じ。正保郷帳には西本郷村とみえ、田方四五三石余・畠方一六六石余。延宝六年(一六七三)に庄屋が一人から二人になり、貞享元年(一六八四)に西部を大垣内おおがいち(高二七七石余)として分村(「本郷・大垣内分村覚」石堂家文書)


西本郷村
にしほんごうむら

[現在地名]近江八幡市西本郷町

鷹飼たかかい村の東にあり、南は上田うえだ村。はちつぼ十二十じゆうにとつぼなど古代条里の遺称とされる小字名が残る。応永九年(一四〇二)二月九日の如法道場田畠家屋敷寄進状(大島・奥津島神社文書)に「蒲生下郡本郷」とみえる。この本郷は南は武佐むさ郷に接し、当地や江戸時代の長田おさだ村・杉森すぎのもり村・大手おおて村・九之里くのり村などが郷域とされ(天満宮蔵棟板など)、当地が最も西に位置することから地名が生じたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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