西沼村(読み)にしぬまむら

日本歴史地名大系 「西沼村」の解説

西沼村
にしぬまむら

[現在地名]鶴岡市西沼

茨新田ばらしんでん村の南、大山おおやま川西岸にある。対岸東沼ひがしぬま(現東田川郡三川町)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ高八四石余。寛永元年庄内高辻帳では高一八九石余。正保郷帳では田高一七二石余・畑高二四石余、旱損、新田がある。弍郡詳記では家数二六。安永(一七七二―八一)から寛政(一七八九―一八〇一)にかけて、茨新田村・辻興屋つじこうや村とともに用水砂防のためにねむ・ぐみ・柳を四万八千本余植付けている(西郷村史)北方に枝村森岡もりおか新田が開かれた。寛文八年(一六六八)検地帳(西沼区有文書)では反別二二町余・歩米一九七石余。


西沼村
にしぬまむら

[現在地名]真岡市西沼

東沼村の西、五行ごぎよう川の左岸に位置する。初めは真岡藩領、寛永九年(一六三二)相模小田原藩領、天明三年(一七八三)幕府領となり、幕末まで続く。慶安郷帳および寛文四年(一六六四)の領地目録では沼和久村(東沼村)しかみえず、同一〇年の検地帳・元禄郷帳には西沼村とある。初め東沼と合せ沼和久ぬまわく村で、江戸時代前期に分村して西沼和久村と称し、のち西沼村と改称したと考えられる。寛文一〇年の村々明細帳(渡辺善兵衛文書)によれば、田高三二七石余・二七町一反余、畑高九七石余・一四町一反余、年貢米一六三石余・永一三貫四七匁余、家数五二(うち本百姓三三・無田百姓一六)・人数二五三、馬二二、寺二で楽法寺(朱印高三石・寄付高三石七斗余)・妙光寺(朱印高三石・寄付高三石二斗余)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android