百科事典マイペディア 「西津荘」の意味・わかりやすい解説
西津荘【にしづのしょう】
→関連項目多烏浦
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若狭国遠敷(おにゆう)郡の荘園。現在の福井県小浜市西津を主とし田烏を含む。山城神護寺領。平安末期,開発領主安倍資長が同寺(文覚上人)に寄進してこれを領家と仰ぎ,自身は預所となることにより立荘したと考えられる。多烏浦(たがらすのうら)(現,田烏)は文覚により〈西津ノかた(片)庄〉とされたという。1196年(建久7)将軍源頼朝の勘気をうけて守護職を奪われた稲庭権守時貞が〈西津庄ばかりかつみやう(渇命)ところに給〉わり,6年後ここで没したことが《若狭国税所今富名領主代々次第》に見える。文覚の配流(1199)に際し,荘は没収されて後鳥羽院領とされたが,承久の乱後返付され,資長の曾孫平氏女が〈重代相伝之道理〉により預所職に補任されている。1265年(文永2)の若狭国惣田数帳(写し)には〈西津庄十七町九反二百卅歩〉,1330年(元徳2),32年(元弘2)に公文平知基が注進した年貢目録(写し)には田20町4反半,塩浜3町2反小10歩,畠11町7反12歩と見える。当時,公文,散仕らの荘官が存在した。室町時代には守護一色氏が西津におり,1416年(応永23)守護代三方常忻が知行権(地頭職であろう)を与えられ,代官を入部させている。荘名は戦国初期まで見えるが,当時の実態は不詳である。
執筆者:須磨 千穎
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