文覚(読み)もんがく

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

文覚
もんがく

平安時代末期~鎌倉時代初頭の真言宗僧侶。もと北面武士遠藤盛遠と称した。誤って源渡の妻,袈裟御前を殺し,これを悔いて出家し,諸国霊場で苦行した。のちに高雄神護寺の復興を発願し,後白河法皇御所を騒がし,伊豆に流された。源頼朝挙兵に協力し,一時大いに権勢をふるった。頼朝の没後謀反企て失敗し,佐渡に流され,いったん許されたが再び鎮西に流され,失意のうちに没したという。

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デジタル大辞泉の解説

もんがく【文覚】

平安末期・鎌倉初期の真言宗の僧。俗名は遠藤盛遠。もと北面の武士で、誤って袈裟御前(けさごぜん)を殺して出家。神護寺再興を強訴したため伊豆に流されたが、そこで源頼朝の挙兵を助け、頼朝開府後に神護寺を復興した。のち佐渡対馬(つしま)に流され、九州で没したという。生没年未詳。

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百科事典マイペディアの解説

文覚【もんがく】

平安末〜鎌倉初期の真言宗の僧。俗名遠藤盛遠(もりとお)。もと北面(ほくめん)の武士。同僚の妻袈裟(けさ)御前に恋し,誤って彼女を殺害し,出家。高雄(たかお)神護(じんご)寺を復興。のち伊豆で源頼朝に会い挙兵をすすめたという。鎌倉幕府成立後は頼朝の信任が厚かったが,頼朝の死後,謀議をはかったとして佐渡へ配流された。その伝承は《平家物語》などにみえ,舞の本,浄瑠璃,歌舞伎の題材となる。
→関連項目【かせ】田荘神護寺多烏浦西津荘明恵申し子

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

文覚 もんがく

1139-1203 平安後期-鎌倉時代の僧。
保延(ほうえん)5年生まれ。真言宗。京都高尾の神護寺再興をこころざし,後白河法皇に寄進を強要して伊豆(いず)に流された。その地で源頼朝にちかづき,のち幕府,法皇の援助で空海ゆかりの諸寺を復興した。頼朝の没後佐渡,対馬(つしま)に配流。もと北面の武士といい,袈裟(けさ)御前を殺した発心譚(ほっしんたん)など,伝説がおおい。建仁(けんにん)3年7月21日死去。65歳。俗名は遠藤盛遠(もりとお)。

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世界大百科事典 第2版の解説

もんがく【文覚】

平安末期~鎌倉初期の真言宗の僧。生没年不詳。俗名を遠藤盛遠といい,鳥羽天皇の皇女上西門院に仕えた渡辺党の武士であった。出家して,諸国の霊山を巡って修行し,その効験をもって知られた。京都に帰って高雄神護寺の復興を企図して勧進活動を行ったが,法住寺殿で後白河法皇に神護寺への荘園寄進を強要したことから伊豆国奈古屋に配流された。この配流先で源頼朝と知己を得,彼に挙兵をすすめたといわれている。鎌倉幕府成立後は頼朝の信任厚く,京都と鎌倉を往復して京都,諸国の情勢を頼朝に伝えるなどの活躍をする一方,その協力を得て神護寺の復興をなしとげた。

もんがく【文覚】

幸若舞の曲名。室町時代の成立。作者不明。大峯,葛城(かつらぎ),熊野で修行を積んで権者とまで称された文覚は,荒廃した高雄の神護寺に住むことになり,堂舎再建を思い立ち,洛中洛外を勧進して歩く。法皇の御所法住寺殿では,折から管絃講の最中であったが,迷惑をかえりみず文覚は勧進帳を高らかに読み上げ,青侍に追い出されそうになり,侍7~8人を刺し殺す。その罪で七条大宮通りの土窟に100日間押しこめられるが,叡山中堂薬師のはからいで命は助かる。

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大辞林 第三版の解説

もんがく【文覚】

平安末・鎌倉初期の真言宗の僧。俗名は遠藤盛遠。北面の武士であったが、源渡みなもとわたるの妻袈裟御前けさごぜんを誤って殺害したため出家。のち罪を得て伊豆に流され、そこで源頼朝に会い挙兵をすすめたという。神護寺を復興し、さらに東寺の復興を発願したが、頼朝没後、佐渡に、次いで対馬つしまに流された。生没年未詳。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

文覚
もんがく

生没年未詳。平安末~鎌倉初期の僧。俗名遠藤盛遠(えんどうもりとお)。摂津の渡辺党の遠藤茂遠(もちとお)の子。初め上西門院(じょうさいもんいん)に仕えたが、同僚の源渡(みなもとのわたる)の妻袈裟(けさ)に恋慕し、誤って彼女を殺したのが動機で出家し、諸国の霊場を遍歴、修行した。文覚は空海(くうかい)を崇敬し、1168年(仁安3)その旧跡である神護寺(じんごじ)に住み、修復に努めた。1173年(承安3)後白河(ごしらかわ)法皇の御所法住寺(ほうじゅうじ)殿を訪ね、神護寺興隆のために荘園(しょうえん)の寄進を強請して伊豆(いず)に流され、そこで配流中の源頼朝(よりとも)に会った。1178年(治承2)許されて帰京したが、流されてのちも文覚は信仰の篤い法皇への敬愛の情を失わず、翌1179年、平清盛(たいらのきよもり)が法皇を幽閉したのを憤り、伊豆の頼朝に平氏打倒を勧め、1180年には平氏追討を命ずる法皇の院宣(いんぜん)を仲介して、頼朝に挙兵を促した。1183年(寿永2)法皇から紀伊(きい)田荘(かせだのしょう)を寄進されたのをはじめとして、法皇や頼朝から寺領の寄進を受け、神護寺の復興に努力した。1190年(建久1)には神護寺の堂宇はほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。文覚はさらに空海の古跡である東寺(とうじ)の復興をも図り、1189年(文治5)播磨(はりま)国が造営料国にあてられ、文覚は復興事業を主催し、1197年には諸堂の修造を終えた。しかし1192年に法皇が没し、1199年(正治1)に頼朝が没すると、文覚は後援者を失い、内大臣源通親(みちちか)の策謀で佐渡に流された。1202年(建仁2)許されて帰京したが、後鳥羽(ごとば)上皇の怒りを買い、翌1203年、さらに対馬(つしま)に流され、やがて没した。[上横手雅敬]

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精選版 日本国語大辞典の解説

もんがく【文覚】

[一] 平安末期・鎌倉初期の真言宗の僧。俗名遠藤盛遠。もと北面の武士。誤って袈裟御前を殺し、後悔して出家。治承(一一七七‐八一)の頃高雄山にのぼり、荒廃した神護寺の再興を志し、後白河上皇に奉加を強要したため伊豆国(静岡県)に流されたが、この地で源頼朝と接触し、のちにその援助で神護寺を復興。また、東寺を修理した。頼朝没後、源通親の策謀により佐渡国(新潟県)に流され、のち対馬国(長崎県)に流された。生没年未詳。
[二] 謡曲廃曲平維盛の子六代御前は、北条時政に捕えられ駿河千本松原で殺されようとした時、文覚が頼朝の赦免状を受けてかけつけ、六代を助ける。六代。
[三] 謡曲。廃曲。高雄山の住僧文覚が那智の滝に籠って修行し、こんがら・せいたかの二童子によって奇特をうけ立派な修験者となる。

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世界大百科事典内の文覚の言及

【神護寺】より

…だが,1149年(久安5)金堂,真言堂以下諸堂が炎上,そののち平安末まで衰退の一途をたどった。この荒廃した神護寺の復興は鎌倉初頭,文覚の手で行われた。文覚は後白河法皇に当寺復興を強訴し,また諸国を勧進して浄財をつのった。…

【髑髏】より

…インドの死と破壊の女神カーリーはどくろの首飾をつけている(《デービー・マーハートミヤ》)。僧文覚(もんがく)が源頼朝に兵を起こすよう説得する際,父義朝の頭と称するどくろを持参したのも(《平家物語》),父の死を改めて想起させるためだった。一方,西欧ではどくろを死の象徴としたのは遅く,15世紀になってからである。…

【那智滝】より

…巨勢金岡筆という伝えのある《那智滝図》(根津美術館蔵,国宝)は著名。なお那智四十八滝は,曾以(そい)の滝,波津以(はつい)の滝など各々に名があるが,一ノ滝の下流にある曾以の滝は,高雄の文覚が三七日(21日間)の滝修行をした滝として,文覚の滝ともいわれる。文覚の滝行は《平家物語》巻五の〈文覚荒行〉にも語られる。…

【西津荘】より

…山城神護寺領。平安末期,開発領主安倍資長が同寺(文覚上人)に寄進してこれを領家と仰ぎ,自身は預所となることにより立荘したと考えられる。多烏浦(たがらすのうら)(現,田烏)は文覚により〈西津ノかた(片)庄〉とされたという。…

【渡辺党】より

…一族は代々滝口などに補され武士として朝廷に仕えたが,源平争乱期に源頼政の郎等として合戦に活躍したことはよく知られている。また源頼朝に決起を促したという文覚(もんがく)上人は渡辺党遠藤氏の出身であり,この系譜は幕府御家人として有力になった。承久の乱でも遠藤氏の多くが幕府方に付き,以後北条氏一族と姻戚関係を結んでいる。…

※「文覚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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