平安末期~鎌倉初期の真言宗の僧。生没年不詳。俗名を遠藤盛遠といい,鳥羽天皇の皇女上西門院に仕えた渡辺党の武士であった。出家して,諸国の霊山を巡って修行し,その効験をもって知られた。京都に帰って高雄神護寺の復興を企図して勧進活動を行ったが,法住寺殿で後白河法皇に神護寺への荘園寄進を強要したことから伊豆国奈古屋に配流された。この配流先で源頼朝と知己を得,彼に挙兵をすすめたといわれている。鎌倉幕府成立後は頼朝の信任厚く,京都と鎌倉を往復して京都,諸国の情勢を頼朝に伝えるなどの活躍をする一方,その協力を得て神護寺の復興をなしとげた。1193年(建久4)には東寺修造料国として播磨国を得てその国務を沙汰し,東寺の修造活動も行った。99年(正治1)庇護者の頼朝が死去するとともにその地位を失い,新たに朝廷内に台頭した源通親によって,親頼朝派の公家の九条兼実らとともに謀議を計ったかどで捕らえられ佐渡国へ配流された。1203年(建仁3),許されて京都に帰ったといわれている。
執筆者:細川 涼一
文覚についての伝承は,《平家物語》諸本を中心に展開される。《源平盛衰記》に,長谷観音に申し子して生まれたが早く孤児となり,幼児期より〈面張牛皮(めんちようふてき)〉な乱暴者であったという。元服後,北面武者となったが,《平家》の読本系諸本では,渡辺橋の供養のとき,渡辺渡(刑部左衛門)の妻の袈裟御前を見て恋慕し,強引に奪おうと夫を討つつもりが,袈裟の計らいでかえって彼女を殺してしまう。この女の犠牲ゆえに18歳で出家した(夫もまた出家して渡阿弥陀仏と称し,異本では重源(ちようげん)であるという)という発心譚をもつ。《平家》諸本は,文覚が熊野那智の荒行で滝に打たれて死んだが不動明王の童子に助けられ,諸国の霊山を修行して〈やいばの験者〉と呼ばれたといい,やがて,神護寺復興のため,法住寺殿に乱入して後白河法皇の遊宴を邪魔して勧進帳を読み上げ,投獄されたが放言悪口が止まないため,伊豆に流されたという。このいきさつや配流の途中断食して祈願したことなど《文覚四十五箇条起請文》に基づくが,《平家》では護送の役人をだまして笑い者にしたり,船中で嵐に遭うが竜王を叱りつけて無事に到着したことなどが加えられる。伊豆では奈古屋の観音堂に籠り,〈長門本〉や〈延慶本〉では湯施行をしたといい,《盛衰記》では相(占い)人の評判を立て,頼朝に対面し,彼が天下の大将軍となる相を見て,父義朝の髑髏(どくろ)を見せて挙兵を勧めたという。《吾妻鏡》には,後年,頼朝が勝長寿院を供養の際,文覚が京より義朝の頭を将来したというが,これが背景にあるか。やがて籠居または入定を装って福原京に上り,平氏追討の院宣を賜って頼朝にもたらしたという。これは《愚管抄》も否定しながら記す。平氏滅亡後は維盛の子六代の助命に奔走するが,これには長谷観音の霊験譚がかかわる。頼朝が没すると直ちに失脚し,佐渡,ついで隠岐に流されるが,〈延慶本〉はこれを,文覚が〈及杖(ぎつちよう)冠者〉とののしった後鳥羽院との確執によると伝え,死後,明恵の前に亡霊が出現して承久の乱を起こそうと告げたという。
物語のなかで文覚は,〈天性不当〉で〈物狂〉な人とされ,勧進聖としての姿を強調することに重なる。また頼朝の護持僧として,予言者であり,さらには幸若舞曲のように平家を呪詛する呪術者という面を示す。《愚管抄》に彼のことを〈天狗マツル人〉という評判があったといい,《吾妻鏡》は江ノ島の洞窟に籠ってまじないを行ったと伝えるなど,王を背後から支える宗教者として造形されている。
なお,文覚の生没については,高山寺蔵の伝隆信筆の文覚画像に〈建仁三年七月二十一日六十五歳没〉と見えており,近年,この没年は信頼に足るものと考えられるようになった。これによると,生年は1139年(保延5),没年は1203年となる。
執筆者:阿部 泰郎
幸若舞の曲名。室町時代の成立。作者不明。大峯,葛城(かつらぎ),熊野で修行を積んで権者とまで称された文覚は,荒廃した高雄の神護寺に住むことになり,堂舎再建を思い立ち,洛中洛外を勧進して歩く。法皇の御所法住寺殿では,折から管絃講の最中であったが,迷惑をかえりみず文覚は勧進帳を高らかに読み上げ,青侍に追い出されそうになり,侍7~8人を刺し殺す。その罪で七条大宮通りの土窟に100日間押しこめられるが,叡山中堂薬師のはからいで命は助かる。100日たっても元気な文覚の法力に感じて,法皇は勧進帳を聴聞するが,人々の主張で文覚は伊豆に流されることになる。文覚は摂津の渡辺から海路を護送される途中,天竜灘で暴風雨にあうが,竜王を叱咤すると海上に竜女が出現して文覚を拝し,波風も静まる。配所の伊豆の観音堂では文覚は相形(そうぎよう)の法を修し,うわさを聞いた源頼朝が会いにくる。文覚は持ってきた義朝の髑髏(どくろ)を見せ,源氏守護と平家調伏を記した12ヵ条の巻物を頼朝に与える。その後,文覚は空飛ぶ輿(こし)に乗って京都の祇園林に行き,平家調伏を修し,その効験で平家は滅ぶ。本曲の素材となったと考えられる説話は《平家物語》《源平盛衰記》などに見えるが,幸若の《文覚》には,父の名を遠房とし,流罪の護送使を福井の庄の下司有治とするなど,それらには見えない伝承もある。中堂薬師の援助で文覚が神通力を発揮して芥子粒のようになって土窟を脱出し,義朝の髑髏からは涙が流れ出し,空飛ぶ輿に乗って祇園林に飛行するなど,ファンタスティックな面を持っているのが,幸若舞の特徴である。
執筆者:山本 吉左右
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生没年未詳。平安末~鎌倉初期の僧。俗名遠藤盛遠(えんどうもりとお)。摂津の渡辺党の遠藤茂遠(もちとお)の子。初め上西門院(じょうさいもんいん)に仕えたが、同僚の源渡(みなもとのわたる)の妻袈裟(けさ)に恋慕し、誤って彼女を殺したのが動機で出家し、諸国の霊場を遍歴、修行した。文覚は空海(くうかい)を崇敬し、1168年(仁安3)その旧跡である神護寺(じんごじ)に住み、修復に努めた。1173年(承安3)後白河(ごしらかわ)法皇の御所法住寺(ほうじゅうじ)殿を訪ね、神護寺興隆のために荘園(しょうえん)の寄進を強請して伊豆(いず)に流され、そこで配流中の源頼朝(よりとも)に会った。1178年(治承2)許されて帰京したが、流されてのちも文覚は信仰の篤い法皇への敬愛の情を失わず、翌1179年、平清盛(たいらのきよもり)が法皇を幽閉したのを憤り、伊豆の頼朝に平氏打倒を勧め、1180年には平氏追討を命ずる法皇の院宣(いんぜん)を仲介して、頼朝に挙兵を促した。1183年(寿永2)法皇から紀伊(きい)国桛田荘(かせだのしょう)を寄進されたのをはじめとして、法皇や頼朝から寺領の寄進を受け、神護寺の復興に努力した。1190年(建久1)には神護寺の堂宇はほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。文覚はさらに空海の古跡である東寺(とうじ)の復興をも図り、1189年(文治5)播磨(はりま)国が造営料国にあてられ、文覚は復興事業を主催し、1197年には諸堂の修造を終えた。しかし1192年に法皇が没し、1199年(正治1)に頼朝が没すると、文覚は後援者を失い、内大臣源通親(みちちか)の策謀で佐渡に流された。1202年(建仁2)許されて帰京したが、後鳥羽(ごとば)上皇の怒りを買い、翌1203年、さらに対馬(つしま)に流され、やがて没した。
[上横手雅敬 2017年10月19日]
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1139~1203.7.21
荒聖人とも。平安末~鎌倉初期の僧。俗名遠藤盛遠(もりとお)。もとは摂津渡辺党に属する武士。出家して神護寺再興を志し,1173年(承安3)後白河上皇に寄付を強訴(ごうそ)して伊豆に配流された。同地で源頼朝と親交を結び,平家追討を促したと伝える。平家滅亡前後から源頼朝・後白河上皇の庇護をうけ,空海ゆかりの神護寺・東寺・西寺・高野大塔などを修復。頼朝没後は後鳥羽上皇に忌避され,佐渡ついで対馬に流罪となり,配流途上で客死。
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…だが,1149年(久安5)金堂,真言堂以下諸堂が炎上,そののち平安末まで衰退の一途をたどった。この荒廃した神護寺の復興は鎌倉初頭,文覚の手で行われた。文覚は後白河法皇に当寺復興を強訴し,また諸国を勧進して浄財をつのった。…
…インドの死と破壊の女神カーリーはどくろの首飾をつけている(《デービー・マーハートミヤ》)。僧文覚(もんがく)が源頼朝に兵を起こすよう説得する際,父義朝の頭と称するどくろを持参したのも(《平家物語》),父の死を改めて想起させるためだった。一方,西欧ではどくろを死の象徴としたのは遅く,15世紀になってからである。…
…巨勢金岡筆という伝えのある《那智滝図》(根津美術館蔵,国宝)は著名。なお那智四十八滝は,曾以(そい)の滝,波津以(はつい)の滝など各々に名があるが,一ノ滝の下流にある曾以の滝は,高雄の文覚が三七日(21日間)の滝修行をした滝として,文覚の滝ともいわれる。文覚の滝行は《平家物語》巻五の〈文覚荒行〉にも語られる。…
…山城神護寺領。平安末期,開発領主安倍資長が同寺(文覚上人)に寄進してこれを領家と仰ぎ,自身は預所となることにより立荘したと考えられる。多烏浦(たがらすのうら)(現,田烏)は文覚により〈西津ノかた(片)庄〉とされたという。…
…一族は代々滝口などに補され武士として朝廷に仕えたが,源平争乱期に源頼政の郎等として合戦に活躍したことはよく知られている。また源頼朝に決起を促したという文覚(もんがく)上人は渡辺党遠藤氏の出身であり,この系譜は幕府御家人として有力になった。承久の乱でも遠藤氏の多くが幕府方に付き,以後北条氏一族と姻戚関係を結んでいる。…
※「文覚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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