西浜町
にしはまのまち
[現在地名]長崎市銅座町・浜町
万屋町の西、中島川左岸にある長崎外町の一ヵ町で、船手に属した。町並はほぼ南北に形成される。はじめ浜町のうちで、寛永一三年(一六三六)「長崎浜ノ町衆三人」が伊勢参宮を行っている(「御参宮人抜書」橋村家文書)。同一九年の平戸町人別生所糺によれば、平戸町の甚左衛門尉は元和九年(一六二三)父母とともに筑後から「長崎浜ノ町」に来たという。同じく佐藤吉右衛門尉の女房は長崎生れでキリシタンであったが、寛永六年から同九年まで長崎奉行であった竹中采女正のとき転び、法華宗本蓮寺を請寺とした。元和八年浜町で天草四郎が生れたという(長崎建立并諸記挙要)。寛文七年(一六六七)浜之町の浅見七左衛門、「ろかす町」の中尾弥次兵衛らは船を仕立てて朝鮮国に武具を売渡したかどで斬罪に処された(犯科帳)。寛文一二年大町の分割策に伴って東浜町・西浜町に分立(華蛮交易明細記)。同年の間数二〇五間・実箇所数三七・諸役御免箇所三(長崎県史)。元禄二年(一六八九)改の間数二〇五間三尺余で、三七箇所のうち三箇所が諸役御免(長崎拾芥)。同九年改の新地築立は七八六坪(寛文三年出願)、七四〇坪など(華蛮交易明細記)。
西浜町
にしはままち
[現在地名]高松市扇町一―三丁目・瀬戸内町
城下最西端、丸亀街道沿いの町人町。天保九年(一八三八)の御領分明細記によると、鉄砲町・木蔵町が西浜町に含まれていた。東は西通町、北は浜ノ丁および海浜、西は汝漁川(現摺鉢谷川)河口に架かる高橋まで。浜ノ丁・西浜村とともに古く野原西浜とよばれた地に属し、応永一九年(一四一二)書写の京都北野社一切経(大報恩院蔵)奥書によると、野原西浜に極楽寺という寺があった。生駒氏時代屋敷割図では一面の塩焼浜。寛永一九年(一六四二)松平頼重入部時の東浜と西浜合せた人数は男一千八・女九七五であるが(増補高松藩記)、このうちには浜ノ丁・西浜村分も含まれたとみられる。城下町の西への発展に伴い西浜の東部から町並が形成され、享保年間(一七一六―三六)の城下図には、西通町の西部、若一王子社付近に鉄砲町、その北西に木蔵町を記載する。
西浜町
にしはままち
[現在地名]敦賀市蓬莱町
船町の南にあり、笙ノ川に架かる今橋で川西の茶町に通ずる。天正二一年(一五九三)五月一四日の大谷吉継判物(道川家文書)に「浜之町」、慶長四年(一五九九)八月一五日付大谷吉継判物(小宮山家文書)に「浜一番」とみえるのは当町か。「敦賀志」は「此町ハ天正十七年に出来、道川氏の先代川舟兵衛三郎茶町の西より爰に移りて住るを始として、追々に町家出来しと云。
西浜町
にしはまちよう
[現在地名]函館市弁天町・大町
仲浜町と同様に近世末から明治初年にかけて、弁天岬台場から地蔵町までの海浜部を埋立てた地に成立した町の一つで、明治五年(一八七二)二月に一町として公認された(同年「御達留」市立函館図書館蔵、「事業報告」第一編)。弁天町一―四丁目の地先にあたる。同九年の現住戸口は六一戸・二八五人(函館支庁管内村町別戸口表)。同一四年七月に仲浜町の一部(四丁目)を編入した(「事業報告」第一編)。
西浜町
にしはまちよう
[現在地名]西区北堀江四丁目
二本松町の西にある。南北に延びる片側町で、北は長堀川の河口、南は堀江川河口に限られ、西は木津川に面する。堀江川には水分橋が架かって下博労町に通じる。堀江新地開発以前からある町で、もとは下博労町の北部(→下博労町)。延宝―貞享(一六七三―八八)頃当町の部分が独立したと思われ、貞享四年新撰増補大坂大絵図に町名がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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