西片上村(読み)にしかたかみむら

日本歴史地名大系 「西片上村」の解説

西片上村
にしかたかみむら

[現在地名]備前市西片上

片上湾の北奥に位置し、東は山陽道で東片上村、西は同じく伊部いんべ村に通じ、北は片上往来で清水しみず(現和気郡和気町)に続く。片上湾は水深は浅いが古代から備前の要港であった。中世、山陽道が当地を通るようになると片上は宿駅としての機能を有するようになり、江戸時代には、岡山藩家老陣屋のある周匝すさい(現赤磐郡吉井町)に至る片上往来を分岐する交通の要衝であった。両道と港に沿って町場が形成されている。

「延喜式」主税寮方上かたかみ津とあって美作国の雑税物の搬出港であった。鎌倉初頭には藤原氏が領し、建久二年(一一九一)一〇月一四日には後鳥羽天皇の松尾まつお(現京都市西京区)行幸の費用が課せられている(玉葉)。寛元四年(一二四六)頃には近衛家が領し、高雅が知行に当たっていた(「葉黄記」同年正月頭書)。弘安元年(一二七八)には、河会かわえ(現英田郡英田町)の渋谷氏が領した薩摩国入来いりき塔原とうのはら(現鹿児島県薩摩郡樋脇町)領家方年貢を運ぶ船の入港があった(五月一八日「尼妙蓮等訴状案」入来院文書)。文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」によれば、備前焼の壺を積んだ片上からの船が兵庫北関へ入津している。なお康永元年(一三四二)の「備前一宮社法」には「かた上」より年々鏑矢の奉納がみえる。永禄一一年(一五六八)六月一日、南接する浦伊部うらいんべとの境相論で尻無尾の北は当地内とされた(「浦上氏裁許状」来住文書)。天正一〇年(一五八二)六月、毛利氏と和睦を結び京へ急ぐ羽柴秀吉を宇喜多秀家の家老らが当地まで送っている(黒田家譜)年寄衆を中心とした湊(村)運営がなされ、警固船調達によって諸公事を免許した年未詳七月一七日の宇喜多直家判物(来住文書)をはじめ、公的文書は年寄衆中に宛てられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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