日本歴史地名大系 「西目村」の解説 西目村にしめむら 鹿児島県:阿久根市西目村[現在地名]阿久根市脇本(わきもと)阿久根郷折口(おりぐち)村の北に位置し、北東は出水(いずみ)郷江内(えうち)村(現高尾野町)。南西は海(東シナ海)、西は黒之(くろの)瀬戸を挟んで長島と対し、北西も海(八代海)に面する。中世には山門(やまと)院、近世には出水郷に属していた。「鹿児島県地誌」は字地として脇本・槝(かし)ノ浦(うら)・八郷(はちごう)・小漉(こすき)・大漉(おおすき)・黒村(くろむら)・瀬(せ)ノ浦(うら)(瀬野浦)・古里(ふるさと)・桐野(きりの)・筒田(つつだ)・下村(したむら)をあげる。江戸時代の初めまでは上知識(かみちしき)村・下知識村・荘(しよう)村(現出水市)の三ヵ村と合せて知識村を称していたが、同村は寛永(一六二四―四四)頃に四ヵ村に分立(出水郷土誌)、さらに宝暦(一七五一―六四)頃には江内地区の干拓が進み、それまで当村のうちであった同地区が分れ江内村になったという(「高尾野町郷土誌」など)。当村北東部から江内村にかけての笠(かさ)山山麓一帯には瀬崎野(せざきの)牧が開かれていた。延文四年(一三五九)四月五日、島津道鑑(貞久)は一期ののちは惣領島津師久に返付することとして「山門院内三箇村并脇本村」ほかを松浦女房に譲り与えている(「島津道鑑譲状」旧記雑録)。 西目村にしめむら 秋田県:由利郡西目町西目村[現在地名]西目町西目西目川中流、盆地状に広がる水田地帯の西南部に位置し、東は西目川を挟んで潟保(かたほ)村、北は沼田(ぬまだ)村、南は川崎(かわさき)村に接し、西は日本海。慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)の滝沢氏領一三ヵ村のうちに村名がある。慶長七年最上氏領、元和八年(一六二二)本多正純領、翌九年本荘藩領となる。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に西目村四〇六石とあり、その北に土花(つちはな)村・高野塩屋(こうやしおや)村が記される。両村は高の記載はないが、すでに新田として成立していた。元禄一五年(一七〇二)の出羽国七郡絵図に「古ハ高野塩屋村、西目村ノ内、高谷村」とある。 西目村にしめむら 鹿児島県:阿久根市西目村[現在地名]阿久根市西目波留(はる)村の南にあり、南は大川(おおかわ)村。西方は海(東シナ海)に面し、北から佐潟(さがた)・高之口(たかのくち)(鷹之口)・大川島(おおかわじま)と小さな浦が連なる。丘陵がちで平地は少なく、南北に出水(いずみ)筋が縦断する。「鹿児島県地誌」は字地として高之口・佐潟・大島・飛松(とびまつ)・落(おとし)・馬見塚(まめつか)(「まみつか」とも)・本(もと)ノ峰(みね)をあげる。村の中央に位置する櫨(はし)地区は、古くは海が入り込んでいて入江(櫨浦)となっていたと伝え、薩摩国建久図田帳にみえる莫禰(あくね)院四〇町のうちの土師浦五町(名主小大夫兼保)の遺称地とされる。 西目村にしみぃむら 鹿児島県:大島郡喜界町西目村[現在地名]喜界町西目(にしめ)湾(わん)間切の北東、西目間切の中ほどに位置し、百之(ひやくの)台の北の裾野にあたる。ニシミィという。南西の朝戸(あさとう)村とは集落が続いており、両所とも豊富な湧水を核として開かれたという。勘樽は調貢によって琉球王国から金鉢巻を与えられ、西目間切の大役に任じられたという。慶長一四年(一六〇九)頃、勘樽金は琉球王国から帰島、西目村の大役屋敷に移ったという(「勘樽金一流系図」奄美大島諸家系譜集)。元禄五年(一六九二)の喜界島帳留(列朝制度)に西目間切与人のとして西目村とみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by