西頸城郡(読み)にしくびきぐん

日本歴史地名大系 「西頸城郡」の解説

西頸城郡
にしくびきぐん

面積:三四六・二七平方キロ
青海おうみ町・能生のう町・名立なだち

現在の西頸城郡は中央を糸魚川いといがわ市によって分断され、一郡としての地理的まとまりを欠く。また現在の糸魚川市・西頸城郡の地域は古来沼川ぬのかわ西浜にしはまと称され、日本海岸に沿う北陸道と日本海に流入する河川に沿って開けた谷に人が住み、川と北陸道の接点に小さな町が成立、その中心はひめ川河口にある糸魚川町であった。これらの理由により、現西頸城郡域と糸魚川市域を行政的に分け、記述することは地理的・歴史的に無理が生ずるので、ここでは両者を併せた、糸魚川市成立以前の西頸城郡につき記述する。

新潟県の最南西部にあり、西は富山県下新川しもにいかわ朝日あさひ町、南は長野県北安曇きたあずみ小谷おたり村、中頸城郡妙高高原みようこうこうげん町・妙高村中郷なかごう村、東は新井市・上越市に接し、北は日本海である。日本の屋根ともいわれる中部高地の飛騨山脈戸倉とくら山・雨飾あまかざり山・やけ山・火打ひうち山などからなる妙高山群により南を限られ、これらの山々により押出された西頸城山塊が海近くまで迫る。青海川・姫川・うみ川・はや川・能生川・名立川などの比較的短い河川がその間を急流をなして流れ、その流域と海岸砂丘上のわずかな平地に集落がある。各川筋の間にある山々は急峻で越えにくいため、各川ごとに上下流の村々をつなぐ道がある。このため各地域を分ける時には、川筋の谷ごとに分け、西から川西かわにし谷・根知ねち谷・西海にしうみ谷・早川谷・能生谷・名立谷とよばれる。海岸線は小さな曲折はあるがほぼ単調で、港としての自然条件には恵まれていない。海岸線に沿って国道八号(旧北陸道)が通るが、かつては親不知おやしらず子不知こしらずの難所として知られたように、山が海の間近まで迫っているため、親は子をかばうのを忘れるほどであったという。姫川に沿って国道一四八号(旧信州街道)が走り、古代以来海のない信州との交易の道であった。現在は国道八号に沿って国鉄北陸本線、国道一四八号に沿って国鉄大糸線が通り、このルートが交通の動脈であることは変わらない。

天平勝宝四年(七五二)一〇月二五日の造東大寺司牒(正倉院文書)に頸城郡の名がある。正倉院銘文に「久疋郡」とあり、「旧事本紀」に久比岐国造が記される。「延喜式」神名帳に頸城郡一三座が記され、うち奴奈川ぬなかわ神社・大神おおみわ社・円田神社・江野えの神社・青海神社が当地域にあったものと思われる。「和名抄」では頸城郡には一〇郷が記され、沼川郷が当地域にあてられ、「奴乃加波」と訓ずる。

〔原始・古代〕

姫川支流の小滝こたき川流域と、青海川流域からは翡翠が産出され、糸魚川市の長者ちようじやはら遺跡・田伏玉作たぶせたまつくり遺跡と青海町の寺地てらじ遺跡はともに縄文時代の翡翠の硬玉製作・加工の場であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報