西高橋村(読み)にしたかはしむら

日本歴史地名大系 「西高橋村」の解説

西高橋村
にしたかはしむら

[現在地名]甲府市西高橋町

七沢ななさわ村の北にある。南に笛吹川(現平等川)が西流する。元禄九年(一六九六)の改修以前は東側を南流してきたにごり川が村の南で笛吹川に合流していた。「甲斐国志」によれば、笛吹川の対岸にある八代郡東高橋村(現石和町)と古くは一村で高橋村と称して石和いさわ郷に属したが、川の流路が変わって分断されたという。若彦わかひこ路は東進ののち南へ折れ、再度東へ折れる。永禄四年(一五六一)の番帳の二六番にみえる「たかはしの禰き」は当地の神明宮の神主とみられ、府中八幡の勤番を命じられていた。

慶長古高帳には八代郡高橋村とは別に山梨郡にも高橋村がみえ、高一四三石余。慶長六年(一六〇一)検地帳(県立図書館蔵)には西高橋村とあり、田一町五反余・畑四町四反余、桑六二束。ほかに永荒地八町五反余があった。

西高橋村
にしたかはしむら

[現在地名]芳賀町西高橋

東高橋村の西に位置し、東部野元のもと川が流れる。北は西水沼にしみずぬま村。慶安郷帳に村名がみえ、田一千三三石余・畑一二九石余で宇都宮藩領。元禄六年(一六九三)以前と推定される同藩領知村々書上(佐藤正重文書)に高一千二六二石余とあり、元禄郷帳では高一千三四一石余。改革組合村では幕府領で家数九〇、寛政三年(一七九一)の荒地指出控帳(菅谷英一文書、以下同文書)では田二四町二反余・一七五石余、畑二二町二反余・六六石余が荒地となっている。

西高橋村
にしたかはしむら

[現在地名]大垣市南高橋町みなみたかはしちよう二葉町ふたばちよう羽衣町はごろもちよう恵比寿町えびすちよう大池町おおいけちよう

新規しんき川流域の平坦地、大垣輪中の中部に位置し、南は江崎えさき村。俗に西沖ともいわれ、文政五年(一八二二)東高橋村(東沖)と合併して高橋村となるが(座右秘鑑)、その後分村している。文安二年(一四四五)のものと推測される石包名未進注進状(東大寺図書館蔵)に「ニシタカハシヒヤウヘ五郎」の名がみえる。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に村名がみえ、村高二八九石余。正保郷帳では田高二一九石余・畑高三七石余。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では高一七九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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