角館城下(読み)かくのだてじようか

日本歴史地名大系 「角館城下」の解説

角館城下
かくのだてじようか

横手盆地最北部、南流する檜木内ひのきない川と南西流するたま川に挟まれた台地上にある。横手盆地中央部と南部領(現岩手県)、また阿仁あに方面(現北秋田郡)を結ぶ交通の要衝

慶長七年(一六〇二)佐竹氏領となる以前は、戸沢氏がこの地に住した。戸沢氏の角館移住時期は応永二八年(一四二一)、同三〇年、天文九年(一五四〇)などの諸説がある。天正一八年(一五九〇)戸沢氏は豊臣秀吉から四万四千三五〇石四斗四升九合を安堵された(「出羽国仙北之内北浦郡御検地目録帳」戸沢文書)。その範囲は現仙北せんぼく郡の大部分と平鹿ひらか郡の一部を含んだ。戸沢氏の城は古城こじよう山に、城下町近世の城下町の北東、院内いんない川の川岸にあったといわれる。この地は近世の本町もとまち村・角館城廻かくだてしろまわり(現田沢湖町)にあたる。

新領主佐竹義宣は、領内各地に一家一門を配し、慶長八年角館には蘆名盛重を配した。盛重は義勝と名を改め、角館を中心に一万五千石を支配した。元和六年(一六二〇)三月二五日には支城破却令により「人足召連角館迄参着致候様ニと申渡越申候」(梅津政景日記)とあり、角館城は破却された。

蘆名氏は新しく居館を造った。その位置は中城あるいは中段と記録されるが不明(角館誌)。城の破却を機会に新しい城下町の建設を決定したと伝えられる。

旧城のあった山の南には平地が広がり、東は小丘陵、南と西は川で、軍事的地形に恵まれた。南に横手盆地をひかえ、六郷ろくごう(現六郷町)から約六里、東は南部領との境国見くにみ峠から約六里、西は雄物川下流の要地刈和野かりわの(現西仙北町)から五里の主要な地点でもあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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