調子庄(読み)ちようしのしよう

日本歴史地名大系 「調子庄」の解説

調子庄
ちようしのしよう

現長岡京市の南部、西国街道沿いにあった荘園。平安時代以来、摂関家の随身等を勤めてきた調子(下毛野)氏が知行してきたのでこの名がある。

下毛野氏は「今昔物語集」巻二〇に「朱雀院ノ御代ヨリ公ニ仕リテ、村上ノ御代ナドハ盛ニえもいは ヌ舎人ニテ有ケル」と記された敦行が著名で、また「御鷹飼競馬上手左近将監(敦行)、朱雀天皇兵仗自是始云々、番長四人重行其一也」と「随身の事覚書」(久我家文書)に記される。重行は敦行の子。その子公忠は藤原道長・頼通の随身・馬使などを勤めて摂関家との関係を深めた。折から摂関家では御随身所など家政機関の整備が進んだが、同時に下毛野氏の随身としての位置も定着し、随身のほか、鷹飼や、雑色長・散所長としてより下の身分である雑色・散所の支配監督を分掌し、摂関家に近習するに至った。なお下毛野氏が調子氏とも称するのは、聖徳太子の愛馬黒駒のをし太子に近侍した従僕調子丸にちなみ、太子信仰所産で、下毛野氏も代々馬芸に秀で馬使などを勤めたことからおのずから生じたものであろう。

近衛家の分立とともに下毛野氏は近衛家と関係を深め、調子の所領は下毛野武守から近衛基通に寄進されて調子庄となった。建長五年(一二五三)の近衛家所領目録(近衛家文書)の「庄務本所進退所々」に「調子庄武茂普賢寺殿時武守寄進」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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