太子信仰(読み)たいししんこう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「太子信仰」の意味・わかりやすい解説

太子信仰
たいししんこう

救世観音(くぜかんのん)ないし日本の教主(釈尊(しゃくそん))として聖徳太子を尊信する精神的態度をいう。救世観音の霊告に導かれて専修念仏(せんじゅねんぶつ)に帰入し和讃(わさん)に「和国の教主」と明記した、鎌倉新仏教の親鸞にその頂点をみる。天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)(中宮寺)と等身の釈迦像(法隆寺金堂)・観音像(法隆寺東院夢殿(ゆめどの))や慧慈(えじ)の誓願(『日本書紀』)は、往生人・教化者(きょうけしゃ)としての敬慕を示すが、飛鳥・白鳳時代、太子は宗教的な信仰対象ではない。奈良時代、夢殿や聖霊大殿(しょうりょうたいでん)(四天王寺)で奉斎行事(聖霊会(しょうりょうえ)など)が営まれ、太子信仰に核と形ができた。平安初期、最澄は法華経将来説(しょうらいせつ)と南岳慧思(えし)後身説に基いて玄孫を自称し、のちの慈円・親鸞に及ぶ天台宗僧の太子尊信に道をひらいた。平安中期、ブッダ伝の構成で諸太子伝を集成した『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』が、救世観音化身説を明確にし、太子像の諸相に教義的内容を与えた。平安後期以降、絵伝・絵巻や彫像・画像、和讃・講式も多くはその記事に拠る。「四節(しせつ)の願文(がんもん)」と「御手印縁起(おていんのえんぎ)」の引用が遊行聖(ゆぎょうひじり)の活動を促し、法隆寺と四天王寺を中心に仏舎利(ぶっしゃり)(ブッダ)と救世観音(太子)を拝して往生の安心を得る太子信仰の典型を形成した。四天王寺は絵解(えとき)に『伝暦』を用い絵所を中心に新たな太子伝を創出していく。太子の予言(未来記)の影響から、磯長(しなが)の太子廟も石記文(いしのきぶん)を出現させて霊場化した。

 鎌倉時代、空海を太子の再生として五尊曼荼羅(法隆寺)に並び描き、片岡山飢人説話(かたおかやまきじんせつわ)から遺跡に達磨寺(だるまでら)が建てられた。叡尊も講式を作り太子講を行ったが、庶民化を決定づけたのは、真宗教団の太子像・太子堂・太子伝の制作と、今も井波(いなみ)瑞泉寺(ずいせんじ)に残る絵解であった。室町時代、広隆寺・橘寺などの聖霊会も賑わい、真言宗では聖徳太子法も修した。大工金(だいくがね)をもつ太子像(斑鳩寺(いかるがでら))など技芸の祖としての太子信仰もみられ、寺僧とは別に太子堂や太子講が営まれた。信仰は謡曲狂言の世界にも及び、近世、庶民の間には太子堂の黒駒太子絵像の前で浄土引接(じょうどいんじょう)を願う信仰もみられた。

[川岸宏教]

『大屋徳城著「聖徳太子に対する後世の崇拝と信仰」(『日本仏教史の研究』所収・1953・法蔵館)』『小倉豊文著『聖徳太子と聖徳太子信仰』(増訂、1972・綜芸舎)』『林幹弥著『太子信仰の研究』(1980・吉川弘文館)』『田中嗣人著『聖徳太子信仰の成立』(1983・吉川弘文館)』『蒲池勢至編『太子信仰』(1999・雄山閣出版)』

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改訂新版 世界大百科事典 「太子信仰」の意味・わかりやすい解説

太子信仰 (たいししんこう)

聖徳太子に対する種々な信仰をさす。聖徳太子の威徳については早くから伝説化され,各時代,さまざまな形であがめられた。すでに《日本書紀》のなかに〈一に十人の訴を聞きたまひて〉とか,片岡遊行の説話があり,常人と異なることが記されているが,奈良時代にすでに,聖徳太子を菩薩とみる伝記が出た。その後《聖徳太子伝暦》や《上宮聖徳太子伝補闕記》によって聖徳太子=救世観音とみる信仰が定着した。また平安時代に入ると,浄土教の布教とともに聖徳太子を極楽に往生した往生人の第一人者とする信仰が起こった。さらに弘法大師や藤原道長を聖徳太子の生れ変りとする説や,善光寺如来との結びつきを語る説が現れた。鎌倉時代に入っても,各宗派で自派と結びつけて日本仏教の祖として聖徳太子をあがめる風潮は強かった。とくに浄土真宗では親鸞が京都六角堂で,太子の示現に会い,法然に邂逅できたとして,聖徳太子を強く信仰している。

 民間への広まりはこの真宗を通しての流布が論じられているが,とくに鉱山関係や職人などの農耕に従事しない人々の間に広まっていった。現在でも太子講といい,毎月聖徳太子の命日とされる22日に掛軸や像の前で講を開くのは,大工,左官,桶屋などの職人関係の人が多い。とくに年頭にあたる2月22日は,そこでその年の日当や職の割りふりが行われている。

 これら民間に流布した太子信仰は弘法大師の大師信仰と同様,神の子であるオオイコ(大子)やオウジ(王子)信仰が基底にあるとされ,聖徳太子も黒駒に乗って現れるなど,史実からかけ離れた話として信仰されている。
聖徳太子
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の太子信仰の言及

【広隆寺】より

…秦氏が衰退した以後の当寺は,秘蔵する仏像の霊験を宣伝して,信仰の寺として寺運を保った。信仰の中心は古代・中世・近世を通じて薬師信仰と聖徳太子信仰だった。病気平癒の現世利益を願う薬師信仰は,平安初期から当寺安置の薬師如来の霊験が世にきこえ,貴賤が群参し参籠する風が広くおこった。…

【四天王寺】より

…《梁塵秘抄》に往生の聖地としてうたわれ,往生伝や《今昔物語集》などの説話に,往生を願う人びとや四天王寺での往生が記される。四天王寺は念仏聖の集まる地として知られ,熊野,高野山,磯長太子廟,善光寺とともにその拠点となり,彼らによって念仏と太子信仰が各地に広められた。融通念仏をはじめた良忍や法然,親鸞,一遍など鎌倉仏教の宗祖たちの参籠も伝えられ,四天王寺の信仰をさらに増幅させることとなる。…

【聖徳太子】より

…太子の伝記は《書紀》に劣らず古いとされる《上宮記》《上宮聖徳法王帝説》などから始まって,数多く作られた。917年(延喜17)成立の《聖徳太子伝暦》に至って,太子の伝説化はほぼ完成されたといってよく,以後平安時代から鎌倉時代にかけて,太子信仰が広く普及していった。太子は敏達・推古両天皇の女の菟道貝鮹(うじのかいだこ)皇女,膳加多夫古(かしわでのかたぶこ)の女の菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ),蘇我馬子の女の刀自古郎女(とじこのいらつめ),尾治(おわり)王の女の猪名部橘(いなべのたちばな)女王などを妃として,山背大兄(やましろのおおえ)王(刀自古郎女の所生)をはじめ数多くの子女を生んだが,622年2月22日に斑鳩宮で病死し,河内の磯長墓(しながのはか)(いま大阪府南河内郡太子町太子の叡福寺境内)に葬られた。…

※「太子信仰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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