護法運動(読み)ごほううんどう(英語表記)Hù fǎ yùn dòng

改訂新版 世界大百科事典 「護法運動」の意味・わかりやすい解説

護法運動 (ごほううんどう)
Hù fǎ yùn dòng

中国,第1次大戦期半ばに,孫文が展開した政治闘争。戦争の長期かつ大規模化は,中国にも参戦問題をもたらし,日本の強力な援助の下に権力拡大をねらう段祺瑞一派の積極参戦論と,これに反対する諸勢力の慎重論との対立は,日ごとに深刻になっていった。この間隙をぬって,1917年7月1日,張勲が清朝復辟のクーデタを起こした。上海にいた孫文は,直ちに民国回復のためにたち上がったが,クーデタそのものは段祺瑞の力で圧服された。かくて北方における優越的支配を確立させた段祺瑞は,反対勢力一掃を期して,国会憲法《臨時約法》の抹殺をはかったので,孫文は,7月17日,海軍を率いて広東に移り,護法のための闘争を開始した。やがて南方軍閥もこれに同調し,9月初め,孫文を大元帥とする護法軍政府が広東に成立した。しかし軍政府内における孫文の権限は,早くも翌年5月には大きな制約を受けることになり,孫文自身,南北双方の軍閥に本質的差異のないことを痛感して,この運動への熱意を失っていった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「護法運動」の意味・わかりやすい解説

護法運動
ごほううんどう
Hu-fa yun-dong; Hu-fa yün-tung

中国,民国初期の共和制擁護の運動。 1916年,袁世凱の急死後,国会と旧約法 (→約法 ) が復活されたが,国務総理段祺瑞を中心とする北洋軍閥の勢力が残存していた。そこで孫文は海軍を率いて広東におもむき,17年9月南方軍政府を組織し,共和制擁護を主張し護法戦争を起した。一方,日本を背景とした段の政治は世論指弾を受け,18年 10月辞職し,軍閥混戦状態に入った。しかし南方でも軍閥対立が顕著となり,19年末に軍政府は瓦解し,全国統一を指向した護法運動は名目化していった。

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世界大百科事典(旧版)内の護法運動の言及

【中華民国】より

…西南軍閥も軍閥という点では北洋軍閥となんら異なるところはなかったのだが,〈護法〉の旗をかかげる孫文とむすぶことにより,大義名分をかかげて北京政府に対抗したのである。護法とは,袁世凱のあとを襲った段祺瑞がやはり臨時約法を蹂躙(じゆうりん)するのに対し,それを擁護することを根本の主義とするもので,革命によって成立した中華民国の正統な後継者との立場を表明するスローガンであった(護法運動)。ここに南北対立の局面が出現し,以後この分裂の構図は北伐の完成まで約10年間あまりつづくことになる。…

※「護法運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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