孫文(読み)ソンブン

デジタル大辞泉 「孫文」の意味・読み・例文・類語

そん‐ぶん【孫文】

[1866~1925]中国革命の指導者・政治家。広東カントン省香山の人。あざなは逸仙。号、中山。初め医師となったが、革命運動に入り、1894年興中会を組織、1905年、東京で中国革命同盟会を結成し、三民主義を綱領とした。辛亥しんがい革命で臨時大総統に就任後、政権を袁世凱えんせいがいに譲ったが、その独裁化に抗して第二革命を開始。1919年、中華革命党中国国民党と改組、1924年、国共合作を実現し、革命推進のため広東から北京に入ったが病死した。著「三民主義」「建国方略」など。スン=ウェン。

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共同通信ニュース用語解説 「孫文」の解説

孫文

孫文そん・ぶん 1866年11月12日、中国広東省生まれ。「三民主義」を提唱して革命運動を推進した。95年に広州で蜂起を企てた際は失敗して日本に亡命。日本を拠点に欧米などで革命資金を募った。1911年10月に武装蜂起が成功し、清朝が崩壊(辛亥革命)。「中華民国」の臨時大総統に選ばれた。14年に中華革命党(19年に国民党に改組)を結成。共産党との連携を図り24年に「第1次国共合作」を実現させ革命推進を目指したが、25年3月に病死した。(北京共同)

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精選版 日本国語大辞典 「孫文」の意味・読み・例文・類語

そん‐ぶん【孫文】

  1. 中国の政治家。字(あざな)は逸仙(いっせん)。号は中山。広東省出身。ハワイ、香港、ヨーロッパに留学。滞欧中「三民主義」を唱え、一九〇五年東京で中国革命同盟会総理となる。辛亥革命で臨時大総統に推されたが、袁世凱に政権を譲り、第二革命で日本に亡命して中華革命党を組織。一九一九年これを中国国民党に改称、三民主義を中心思想として革命を推進した。(一八六六‐一九二五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「孫文」の意味・わかりやすい解説

孫文
そんぶん / スンウェン
(1866―1925)

中国革命の先覚者。共和制を創始して国父と称された。海外では、その号の逸仙(いっせん)で知られ、中国では中山の号でよばれている。

 広東(カントン)省香山(中山)県の貧しい農家の次男として生まれる。ハワイで財をなした兄、孫眉(そんび)(1854―1915)のもとに14歳のときに赴き、キリスト教系の学校に学んで、英語を通して欧米文化の基礎的知識を初歩から体得すると同時に、聖書を手にする習慣を身につけた。18歳のときに帰国して、香港(ホンコン)で洗礼を受け、広州の医学校で三合会首領の鄭士良(ていしりょう)(1863―1901)と相知った。1887~1892年香港の西医書院に在学中に革命を志し、1892年マカオ、広州で開業し、同時に反清(はんしん)運動に入った。1894年、日清(にっしん)戦争に際して、兄、孫眉らの支持の下にハワイで興中会を組織し、華僑(かきょう)や会党と組み、翌1895年10月に広州で最初の挙兵を試みるが失敗に終わっている。日本に亡命し、弁髪を切って洋装し、1896年ハワイを経てロンドンに赴いた。ロンドンで清国公使館に捕らわれたが、西医書院在学時の旧師カントリーJames Cantlie(1851―1926)らに救出され、『ロンドン被難記』を英文で著して世に知られた。イギリス滞在中に見聞を広め、欧米先進国の社会的矛盾に目覚め、後の三民主義の着想を得ている。1897年(明治30)アメリカを経て来日し、宮崎滔天(みやざきとうてん)(寅蔵(とらぞう))らと交わり、康有為(こうゆうい)らとの提携や、フィリピン独立援助を試みたが、ともに失敗し、1900年に第2回の挙兵(恵州事件)を試みたものの、同様に失敗に終わっている。

 孫文が第2回目の世界旅行を行う間に、留日学生が増加し、その革命化が進んだが、中国国内でも光復会や華興会などの革命組織が生まれていた。1905年(明治38)日露戦争も終わりに近いころ、来日した孫文は東京で革命諸派を合して中国同盟会を結成し、三民主義や革命方略を定めたが、こののち辛亥(しんがい)革命にかけて、中国中・南部の各地で10回に上る反清武装蜂起(ほうき)が反復された。この間、孫文は、第3・第4回目の世界旅行を試み、1911年10月に軍資金の募集でアメリカにいて辛亥革命の勃発(ぼっぱつ)を知り、列強の援助を期待して西欧を巡り、帰国した。臨時大総統に推されて、1912年1月1日中華民国を発足させたが、まもなく南北和議により政権を袁世凱(えんせいがい)に渡した。社会改革を志向したが、宋教仁(そうきょうじん)暗殺事件を契機とする第二革命に敗れて日本に亡命、中華革命党をたてた。宋慶齢(そうけいれい)と再婚したのも、この間のことである。第三革命で袁世凱が倒れたあとの軍閥混戦状態の下で、護法運動を起こし、三たび広州を中心に政権の樹立に努めた。幾多の挫折(ざせつ)を経て、軍閥の背後に帝国主義があり、人民と結合して反帝反軍閥の戦いを進めねばならないことを知り、ロシア革命に学んだ。1924年1月、中国国民党を改組して、中国共産党と提携(国共合作)し、労働者、農民の結集を図って、国民革命を推進することとした。11月、北上宣言を発して北上の途にのぼり、日本に立ち寄って、「大アジア主義」と題された講演を行い、国民会議を開催するため北京(ペキン)に入ったが、「革命いまだならず」と遺嘱して3月12日北京に客死した。1929年遺骸は北京近郊の西山から、南京郊外の中山陵に移葬された。

[野澤 豊 2016年3月18日]

政治思想

孫文の政治思想は三民主義をもって代表されるが、それは太平天国の革命的伝統を受け継ぎ、19世紀の自然科学(進化論)、フランスの革命思想(人民主権説)、イギリスの社会学説(ヘンリージョージの単税論など)を取り入れ、中国の現実に適合させたものであり、民族の独立と、人権の尊重、および社会的平等の実現を目ざしていた。晩年には、連ソ・容共・工農扶助の三大政策へと発展を遂げ、毛沢東(もうたくとう)らはこれを新民主主義の基本理念として継承した。それは「資本の節制、耕す者が其(その)田を有す」などといった考えにも示されているように、帝国主義段階の後進国における革命理論として、とりわけ特権と独占に反対するものであった。

[野澤 豊 2016年3月18日]

『島田虔次他訳『三民主義(抄)ほか』(2006・中公クラシックス)』『藤井昇三著『孫文の研究』(1966・勁草書房)』『横山宏章著『孫文と袁世凱――中華統合の夢』(1996・岩波書店)』『野澤豊著『孫文と中国革命』(岩波新書)』『陳舜臣著『孫文』上下(中公文庫)』

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百科事典マイペディア 「孫文」の意味・わかりやすい解説

孫文【そんぶん】

中国,清末民国初期の革命指導者。中国での共和制の創始者。字は逸仙,中山。広東省中山県の人。14歳の時ハワイの兄のもとにいき,18歳で帰国し受洗。香港の西医学院などで医学を学び,早くから西欧的教養を身につけた。この間,清仏戦争に遭遇し救国の志をいだき革命運動に転身。1894年ハワイで興中会を結成し,1895年広州で挙兵,1900年にも宮崎滔天(とうてん)らの援助を受け恵州で挙兵したが(恵州蜂起),いずれも失敗。1905年中国同盟会を結成し,三民主義を綱領として革命運動を推進。辛亥(しんがい)革命により1912年中華民国の臨時大総統となったが,袁世凱に政権を譲り,第二革命失敗後,日本に亡命。1914年に宋慶齢と結婚。中華革命党を組織し,1919年中国国民党と改称したが,中国そのものは軍閥混戦の中に置かれた。この間,ソ連との友好・提携を深め,1924年国民党を改組して,連ソ・容共・農工扶助の政策を掲げ,国共合作,国民革命を志向したが,実現をみないうちに没した。また,〈大アジア主義〉を唱え,アジアの被圧迫民族を解放するために日本が覇道を捨てるよう訴えた。→五権憲法
→関連項目王雲五汪兆銘黄埔軍官学校黒竜会五・四運動五族共和三峡ダム蒋介石章炳麟宋教仁孫科中山陳嘉庚頭山満南京北伐香港大学ポンセヨッフェ李大【しょう】廖仲【がい】

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改訂新版 世界大百科事典 「孫文」の意味・わかりやすい解説

孫文 (そんぶん)
Sūn Wén
生没年:1866-1925

中国の革命家,政治家。中国国民党の創設者,指導者。中華民国の創始者として国父と称された。字は逸仙,号は中山(欧米ではしばしばSun Yat-senと呼ぶ)。広東省香山県(現,中山県)翠亨村の貧しい農家に生まれ,12歳のとき出稼ぎで成功したハワイの長兄のもとに行き,教会学校で西欧の近代教育をうけた。16歳のとき帰国,香港で洗礼を受け,広州の博済医院の付属医学校で医学を学んだ。この学校で反満秘密結社三合会の首領鄭士良(1863-1901)と知り合った。後の革命活動において鄭士良は孫文をよく助け,会党工作の責を果たした。1887年香港の西医書院に在学中,陳少白らのいわゆる〈四大寇〉と交わった。時あたかも清朝はベトナムの宗主権をめぐるフランスとの戦いに敗れ社会変動の波が押し寄せつつあった。こうしたなかで孫文は憂国救国の思いにかられ,ついに革命を決意した。92年澳門(マカオ),広州で開業したが,やがて医業を離れて革命運動に専念し,94年ハワイで革命秘密結社興中会を組織した。95年広州で最初の武装蜂起を企てたものの失敗し,日本に亡命した。その間,横浜に興中会分会を組織したあと,96年ロンドンに行き,清国公使館に監禁された。しかし奇跡的に救出され,革命家として一躍有名になった。ヨーロッパ社会を実際に見て,民生問題の重要性に気づき三民主義の構想を練った。97年日本にもどり宮崎滔天,犬養毅らを知り,東京,横浜に居住した。99年犬養,宮崎,平山周,内田良平らとフィリピン独立運動を援助したが失敗。1900年厦門(アモイ)出兵をねらう日本軍部からの武器援助の密約に期待して恵州蜂起を企て,失敗を重ねた。武装蜂起を最重要視した当時の孫文の革命路線の典型的な例であった。

 このころ,衰退をつづける清朝の新政を求める立憲改良派と革命派は中国の将来をめぐって論戦を交えていたが,05年東京で革命3派(興中会,華興会,光復会)は合同して中国同盟会を結成した。孫文は総理に選ばれ,機関誌《民報》を発行して三民主義を発表した。06年《革命方略》を明らかにし,共和国建設の順序として軍法の治,約法の治,憲法の治の3期に分けた。11年10月辛亥(しんがい)革命が勃発するとアメリカから帰国し,臨時大総統に選ばれ,12年1月中華民国が発足したが,南北妥協の結果,袁世凱が大総統に就任した。袁世凱は独裁支配を強化し宋教仁を暗殺したので,孫文は第二革命を起こしたが敗れ,日本に亡命のやむなきにいたった。14年国民党を改組して中華革命党を組織し,日本の政界,軍部,実業界などから援助を得ようとしたが成功しなかった。しかし15年末第三革命を起こし袁世凱の帝制運動を挫折させた。17年から護法運動を展開するなかで広東政府を樹立して反動軍閥との戦いを続けた。19年,学生,民衆による五・四運動は北京,上海等の諸都市で愛国闘争をくりひろげた。この闘争から孫文は民衆を革命の担い手とする必要性を痛感し,10月中華革命党を改組して公開の政党中国国民党を組織した。ロシア十月革命後のソビエトへの思想的共鳴を深める一方,21年に創設された中国共産党との提携を積極的に進め,共産党もコミンテルンの方針に従い国共合作に踏み切った。23年コミンテルン派遣のM.M.ボロジンを国民党の最高顧問に任命し,国民党改組宣言を発表して反軍閥・反帝国主義を国民党として初めて公然と掲げるにいたった。

 24年1月中国国民党第1回全国代表大会は連ソ,容共,農工援助の三大政策を決定し,軍閥の背後に帝国主義列強が存在して中国の内乱を作り出しているとして,反帝国主義・反軍閥を明確に表明した。1月から8月まで三民主義講演を行い,三民主義の目標は滅亡に瀕している中国を救うための〈救国主義〉であると強調。4月《国民政府建国大綱》を発表して三民主義と五権憲法(立法,司法,行政,監察または弾劾,考試)に基づいて中華民国を建設すること,建設の順序は(中国同盟会時期の《革命方略》を発展させて)軍政時期,訓政時期,憲政時期の3段階とすることを定めた。11月日本を訪問し,神戸で〈大アジア主義〉の題で講演し,欧米の覇道と東洋の王道を対置し,ソビエトを王道国家とし,アジアの被圧迫民族を解放するため日本が覇道を捨てて王道に帰り不平等条約を廃棄するよう求めた。25年3月北京の病床にあって国民党への遺嘱をつづり,〈世界でわれわれを平等に待遇する民族と連合し,共同して奮闘す〉べきこと,〈革命はなおまだ成功していない〉ので建国方略,建国大綱,三民主義,国民党第1回全国代表大会宣言に基づいて努力を続け,国民会議開催と不平等条約廃棄を最短期間に実現すべきことを訴えた。遺骸は北京から南京郊外の紫金山の中山陵に移され葬られた。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「孫文」の解説

孫文(そんぶん)
Sun Wen

1866~1925

清末から民国時代初期に活躍した革命指導者。字は逸山または中山。広東省香山(現,中山市)の人。香港で医学を修め開業したが,まもなく革命に専念し,1894年興中会を組織した。翌年広州奪取を計画して失敗,日本から欧米を回って,97年日本に本拠を置き革命を鼓吹,1900年恵州で挙兵して失敗。05年革命諸派を糾合して中国同盟会を結成し,各地で挙兵した。11年10月辛亥(しんがい)革命が起こり,翌年1月中華民国臨時大総統に就任したが,2月辞職して袁世凱(えんせいがい)に地位を譲った。まもなく袁世凱政権の専制化に反対して反袁運動を起こし,14年広東派を中心に中華革命党を結成,19年中国国民党と改称,広東を中心に軍閥打倒,中国統一の運動を続けた。21年からソ連に接近し,24年党大会を開いて「連ソ・容共・扶助工農」政策を決定し,北伐を志したが,奉直戦争後の時局収拾のため北京におもむき,ここで病死した。彼の唱えた三民主義は中国革命の基本理念として後まで重んじられた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「孫文」の意味・わかりやすい解説

孫文
そんぶん
Sun Wen; Sun Wên

[生]同治5(1866).10.6. 広東,翠亨
[没]1925.3.12. 北京
中国の革命家。広東省香山 (現,中山) 県の人。号は逸仙,中山。少年時代ハワイに渡り,帰国後広州,ホンコンで医学を学び開業したが,秘密結社興中会を組織した。光緒 21 (1895) 年,興中会の広州蜂起以来,清朝打倒,民主主義国家樹立のための革命運動に従事,同 31年中国革命同盟会を結成,三民主義をその綱領とした。宣統3 (1911) 年の辛亥革命により,1912年1月中華民国臨時大総統に就任したが,次いで軍閥袁世凱と交代,清朝を打倒しただけで革命は失敗した。以後,軍閥政権に対し革命運動を続けたが,大衆を動員,結集するに足る反帝国主義,反封建の明確な綱領を提起できず,失敗を繰返した。ロシア革命,五・四運動,中国共産党の成立を経て大衆の力に着目,24年国共合作を実施し,軍閥,帝国主義打倒を目指したが,25年北京で病死した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「孫文」の解説

孫 文
そんぶん

1866〜1925
中国の政治家で,中国革命の指導者
字 (あざな) は逸仙 (いつせん) または中山 (ちゆうざん) 。広東省香山県の生まれ。ハワイ・香港で学んで医師を開業。1894年に興中会を組織したが,広州蜂起に失敗してロンドンに亡命。1905年東京で中国同盟会を結成して総理に就任し,三民主義を会の綱領とした。辛亥革命で帰国し,1912年中華民国臨時大総統に就任したが,まもなくその地位を袁世凱 (えんせいがい) に譲った。袁の独裁化に反対して反袁運動を起こしたが失敗し(第2革命),日本に亡命。1914年東京で中華革命党を組織,その翌年宋慶齢と結婚した。1917年広東で軍政府をつくったが,翌年軍閥のために広東を追われ,上海に逃れた。中国革命党が少数革命家の結社と化した弊害に鑑み,1919年中国国民党と改めてその総理となり,21年広東政府の総統となった。そのころ,マーリンやヨッフェと会ってソ連に接近し,1924年の中国国民党統一全国大会で連ソ・容共政策を提唱して,ここに国共合作が成立した。同年北伐を宣言し,段祺瑞 (だんきずい) ・張作霖 (ちようさくりん) と時局収拾の会談を行うため北京にはいったが,1925年3月病没,中山陵に葬られた。著書に『三民主義』『建国方略』などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「孫文」の解説

孫文 そん-ぶん

1866-1925 中国の革命家,政治家。
同治(どうち)5年10月6日(1866年11月12日)生まれ。1894年ハワイで反清朝の革命秘密結社興中会を組織。広州で武装蜂起に失敗し,日本に亡命。明治38年東京で中国同盟会を結成,民族・民権・民生の三民主義をかかげる。1911年辛亥(しんがい)革命がおきるとアメリカから帰国し,翌年中華民国の臨時大総統となるが,袁世凱(えん-せいがい)にゆずり辞任。以後袁の帝政運動,反動軍閥とたたかう。日本亡命中の1915年宋慶齢と結婚。1917年広東(カントン)政府を樹立,1919年中国国民党を結成,1924年第1次国共合作を実現して総理に就任。1925年3月12日死去。60歳。「国父」とよばれている。広東省出身。西医書院卒。中国語読みはスン-ウェン。字(あざな)は徳明,号は逸仙,中山など。
【格言など】革命いまだならず(遺嘱のことば)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「孫文」の解説

孫文
そんぶん
Sun Wen

1866.11.12~1925.3.12

中国の清朝末期~民国初期の革命家・政治家。中国国民党の創設者。字は徳明,号は逸仙(いっせん)・中山。広東省出身。ハワイの教会学校で学び,香港の西医書院を卒業。澳門(マカオ)などで開業する一方,革命活動を開始。1894年ハワイで興中会を組織。翌年広州での挙兵が失敗し,日本に亡命。宮崎滔天(とうてん)・犬養毅(つよし)らの援助をうけ,1900年恵州で再度蜂起を試みたが大敗。05年(明治38)東京で中国革命同盟会を結成,三民主義を綱領とした。辛亥(しんがい)革命により中華民国臨時大総統に選ばれたが,南北妥協で袁世凱(えんせいがい)に政権を譲った。13年第2革命失敗後,再び日本に亡命,国民党の前身である中華革命党を創立(19年中国国民党)。24年国民党を改組し,連ソ・容共・農工扶助の方針を打ちだした。

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旺文社日本史事典 三訂版 「孫文」の解説

孫文
そんぶん

1866〜1925
中国の革命家
広東省の人。日本亡命中,中山樵 (きこり) と名のったので号を「中山」という。1899年日本に亡命し宮崎滔天・内田良平らの支援をうけ,1905年東京で中国革命同盟会を結成,'11年辛亥革命に成功し,翌年臨時大総統に就任したが,袁世凱 (えんせいがい) にその地位を奪われて日本に亡命。三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)を発展させ,国民革命への道を開いた。'19年中国国民党を結成,のち「連ソ容共」を唱え,共産党と提携し(第1次国共合作)北方軍閥の打倒をはかったが,北京で病死。

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367日誕生日大事典 「孫文」の解説

孫 文 (そん ぶん)

生年月日:1866年11月12日
中国の革命家;思想家
1925年没

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世界大百科事典(旧版)内の孫文の言及

【荒尾[市]】より

…戦前の工場跡地付近は総合運動公園,三井グリーンランド,ゴルフ場となり,近年台地には住宅団地や大規模なショッピングセンターができている。周辺では17世紀初めに起源をもつといわれる小代焼,ナシ,ミカンを産し,県立公園小岱山麓に古代の窯跡や製鉄跡群,三宮古墳の石人のほか,宮崎八郎,民蔵,滔天3兄弟の生家と滔天と孫文の深い交流を物語る宮崎兄弟資料館がある。孫文の記念館がある。…

【袁世凱】より

…北洋新軍は全国的に蜂起した革命軍を鎮圧できず,革命軍は精鋭の北洋軍を打倒できないという対峙状況のもとで,講和会議がはじまり,12年2月,袁世凱は清帝退位とひきかえに中華民国臨時大総統となった。孫文らの革命派は,王朝制度をたおし,民主的な憲法(臨時約法)をつくっておけば,袁世凱と協調して富強の共和国を建設できると考えたのである。権力をにぎった袁世凱はまず各地の革命軍を解散した。…

【王雲五】より

…広東省香山県(現在の中山県)の人。呉淞(ウースン)中国新公学で,胡適,朱経農らに英語を教え,1912年臨時大統領に就任した同郷の孫文の秘書となる。国民大学(のち中国公学大学部,中国大学と改称)教授,《北平民主日報》編集者を経て,20年商務印書館編訳所所長,30年同総経理となる。…

【萱野長知】より

…その活動は多彩だが,中華革命党の組織には深く関与し,顧問となった。孫文の臨終によばれた唯一の日本人である。満州事変後,犬養毅首相の密使となって和平交渉に赴いたが,成功せず,戦後,貴族院議員に勅選された。…

【広東政府】より

…中華民国の初期に広東で4度樹立された反中央の地方政権,辛亥革命の指導者孫文と国民党が北洋軍閥に対抗して組織したものである。共和制の中華民国は,主権在民の〈臨時約法〉(憲法にあたる)と民選の国会をもったが,軍閥の袁世凱,張勲らはそれを破壊した。…

【黄興】より

…04年,蜂起に失敗して日本に逃げ,宮崎滔天にめぐりあった。翌年,滔天を介して来日した孫文と対面し,協力して中国同盟会を創立,ナンバー2の地位に就いた。同盟会時代,黄興は武装蜂起の前線指揮官として八面六臂の活躍をし,敵からもその豪胆を称賛された。…

【興中会】より

…近代中国最初の民族・民主革命結社。日清戦争を契機に,孫文によって,1894年11月,ハワイで創設され,翌年香港に移された。草創期には,陳少白が孫文をよく助けた。…

【国民革命】より

…1927年の国共分裂を境に前後期にわかれ,性質は一変する。五・四運動後の1919年10月,孫文はみずからの党派の名称を中国国民党と定め,広東を根拠地に段祺瑞の北京政府と対抗した。しかし陳炯明(ちんけいめい)の裏切りにあって22年8月,上海に走った孫文はソ連代表とも接触し,国共合作に踏み切った。…

【五権憲法】より

…三民主義と並んで孫文によって提唱され,中国国民党の政綱となった憲法理論。行政・立法・司法の三権に中国の伝統に根ざした監察・考試の二権を加え,五権を相互に独立した機関によって行使せしめる構想。…

【五・四運動】より

…その中心となったのは,新文化運動の中心的指導者であり,五・四運動のなかで〈北京市民宣言〉を配布して逮捕投獄された陳独秀だった。五・四運動の影響は単に中国の過激派のみならず,進歩分子全般に及んだのであって,たとえば辛亥革命の立役者だった孫文らの革命派も,中華革命党を中国国民党と改称して新たな革命への準備を始め,やがて国共合作のもと,国民革命へと踏み出すことになるのである。【狭間 直樹】。…

【五族共和】より

…中国,辛亥革命直後の1911‐12年以降,孫文らが提唱したスローガン。五族とは漢族,満州族,モンゴル族,回族,チベット族で,中国の主要民族を指す。…

【国共合作】より


[第1次(1924年1月~27年7月)]
 コミンテルンは,1920年,帝国主義との闘争において民族・植民地解放運動と同盟する戦略を決定し,中国における唯一のブルジョア革命政党,中国国民党に働きかけた。国民党の指導者孫文はソ連の援助を受け入れたが,中国共産党との合作においては党と党との提携ではなく,中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を要求した。1924年1月,国民党第1回全国大会は〈連ソ・容共・労農援助〉の新政策を決定し合作は正式に発足した。…

【護法運動】より

…中国,第1次大戦期半ばに,孫文が展開した政治闘争。戦争の長期かつ大規模化は,中国にも参戦問題をもたらし,日本の強力な援助の下に権力拡大をねらう段祺瑞一派の積極参戦論と,これに反対する諸勢力の慎重論との対立は,日ごとに深刻になっていった。…

【三民主義】より

…中国,孫文が唱えたブルジョア民主主義革命の思想。民族主義・民権主義・民生主義から成るので三民主義と総称される。…

【辛亥革命】より

…1911年(宣統3)辛亥の年に勃発し,清朝を打倒して中華民国を樹立した中国の革命。孫文はつとに1894年(光緒20),興中会を組織して革命を唱えたが,革命風潮が高揚をみせるのは20世紀に入ってからのことである。1903年には100万部も出回ったろうと推定される鄒容(すうよう)の《革命軍》の刊行,清朝の権威失墜に終わった《蘇報》事件の発生など,世の耳目を聳動(しようどう)する大事件がつぎつぎと起こった。…

【宗法】より

…このような全体系を広義に宗法ともいうのである。 孫文が《三民主義》(1924)の中で,中国が世界に侮られるのは宗族主義が強すぎて国族主義がなく,ために外国人は中国人を一握りのばらばらの砂だという,といったのはこの広い意味の宗法体制であり,毛沢東が《湖南農民運動考察報告》(1927)の中で,農村にみられる政権,族権,神権,夫権の四つの権力の系統的支配は〈封建宗法の思想と制度のすべてを代表している〉といったのもまた広い意味の宗法である。この孫文や毛沢東の発言からしても,宗法の生みだした深刻な影響を知るべきである。…

【大アジア主義】より

…これに対して,中国の革命勢力からの批判も出てきた。1919年の李大釗(りたいしよう)の論文〈大亜細亜主義与新亜細亜主義〉や,24年の孫文の神戸での〈大アジア主義〉と題する講演中の〈日本は世界文化に対して西方の覇道の番犬となるか,はたまた,東方王道の干城となると欲するか〉の一言などがそれである。アジア主義【橋川 文三】。…

【太平天国】より

…それによってこの運動は近代の中国革命の源流となった。民国革命の父孫文は第二の洪秀全と自称し,後者が免れなかった皇帝主義を批判しつつ,その清朝打倒と独立という課題を自覚的に継承しようとした。また太平天国時代の地主や官僚に対する農民の闘いは多くの歌謡や伝説によって民衆の中に語り継がれ,1920年以降のより自覚的な農民革命論を生み出す土壌を準備した。…

【中華人民共和国】より

…正式名称=中華人民共和国People’s Republic of China面積=960万km2人口(1996)=12億2390万人(台湾・香港・澳門を除く)首都=北京Beijing(日本との時差=-1時間)主要言語=中国語(漢語)通貨=元Yuan
【概況】

[建国]
 1949年10月1日,北京(当時は北平と呼ばれた)の天安門楼上で,中国共産党主席毛沢東は,中華人民共和国の成立を高らかに宣言した。これによって,台湾および金門,馬祖など若干の島嶼(とうしよ)をのぞき,中国大陸に真の統一国家が実現し,この日はこれ以後,建国記念日,すなわち国慶節として国家の記念日に指定された。…

【中華民国】より

…首都は南京。初代臨時大総統にはもっとも威信ある革命家孫文が就任した。新共和国は五色旗を国旗とし,暦制には12年を中華民国元年とする中華民国暦(陽暦)を採用した。…

【中国国民党】より

…青天白日旗を党旗とする。その前身は19世紀末にさかのぼるが,1919年10月,孫文を指導者として成立した。孫文の死後,蔣介石が党内反共右派に支持されてしだいに党の実権を握り,以後国民党は,75年台湾で蔣介石が死去するまで,その指導下にあった。…

【中国同盟会】より

…1905年8月,日本の東京で甘粛省をのぞく本土17省の留学生300余名を結集して組織された。総理は興中会以来の革命歴を背負う孫文,副総理格の執行部長に華興会の創立者で留学生に人望のあった黄興がついた。綱領は〈駆除韃虜,復中華,創立民国,平均地権〉(四綱)で,別の言い方では民族・民権・民生の三大主義である(のちに三民主義とよばれる)。…

【土地問題】より

…したがって社会改良家あるいは革命家とよばれる人々は,例外なく土地問題の解決を重要な政治綱領だと考え,土地所有権を棄揚すること,あるいは少なくとも土地所有権の絶対性を否定してこれに社会的な介入を行う必要を主張した。たとえば土地の国有化あるいは公有化は,社会主義者の政治綱領にとって欠くことのできないものと考えられ,19世紀末にアメリカ合衆国で大きな反響をよんだヘンリー・ジョージHenry George(1839‐97)や,その影響を強く受けたイギリスのフェビアン協会派の人々,さらに中国革命の父とよばれる孫文らは,土地に対する課税が土地問題の解決に貢献すると主張した。
【現代の土地問題】
 地主小作の対立抗争は,現在でも多くの発展途上国において最も深刻な土地問題である。…

【北伐】より

…中国,近代における孫文ら国民党系の広東を根拠地とする全国統一戦争をいう。中華民国の正統な継承者として広東政府を組織した孫文らは,北京の簒奪者から政権を奪回すべく3回にわたって北伐戦争を発動した。…

【宮崎虎蔵】より

…これは兄弥蔵(1866‐96)の思索の成果に賛同したのだが,その実践においては早逝した兄の分までひきうけて奮闘したかの観がある。1897年に孫文と相知った虎蔵は,99年には孫文とともにフィリピン独立戦争を助け,翌年には孫文の恵州蜂起を援助した。蜂起失敗後,某政商の背任事件との関連で虎蔵は一時革命運動の戦列をはなれて浪花節語りとなって生計の途を講ずるのだが,この間に自伝《三十三年之夢》を書いて革命家孫文を世に紹介した。…

※「孫文」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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