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デジタル大辞泉
「北洋軍閥」の意味・読み・例文・類語
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北洋軍閥【ほくようぐんばつ】
中国,中華民国時代,袁世凱の流れをくんで北京の政権に参画した軍閥の総称。その政府を北洋政府,その時代(1913年―1928年)を北洋時代ともいう。その起源は,李鴻章から袁世凱が引き継いだ新建陸軍(兵力7000名)にある。1902年に袁世凱が直隷総督兼北洋大臣になって1904年までには1万2500余名で1個鎮とする6個鎮が編成され,清末には北洋新軍の兵力は16個鎮・16個混成協の兵力に達した。1911年の辛亥革命で成立した中華民国政府を袁世凱が奪権できたのもこの兵力が背後に控えていたからである。袁の死(1916年)後,北洋軍閥は内部抗争から分裂し,河北省出身の軍人を中心とした馮国璋(ふうこくしょう)の直隷派と,安徽省出身者が多くを占める段祺瑞(だんきずい)の安徽派,さらに傍系的存在で東北に本拠をおく張作霖の奉天派の3派となった。袁を継いで大総統となった黎元洪は直隷派の傀儡(かいらい)であり,段祺瑞は国務総理であったから,両者の抗争は総統府と国務院の対立というかたちをとった。北京の覇権を握った安徽派は日本と結び,1920年に英米の支援をうけた直隷派と戦ったが敗れ(安直戦争),奉直連合が成立したが,1922年の第1次奉直戦争では直隷派が,1924年の第2次奉直戦争では日本と結んだ奉天派が勝利を収めた。その後直隷派から馮玉祥が離脱して国民軍を創設,一時,奉天派・安徽派・国民軍の連合政権が成立したが,1926年の奉国戦争で奉天派が勝利し,日英支援の奉直連合政府が成立した。1926年,南京国民政府の蒋介石の北伐軍が北京に迫ると北洋派は連敗を喫し,長江以南を失った。1928年奉天に撤退する張の乗る列車が日本の関東軍に爆破されて張は殺された(張作霖爆殺事件)。同年12月,張の息子張学良は日本の干渉にもかかわらず国民政府に参加し,北洋派は消滅した。
→関連項目王克敏|呉佩孚|曹【こん】|北洋
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北洋軍閥
ほくようぐんばつ
Bei-yang jun-fa; Pei-yang chün-fa
中国,清朝末期,袁世凱が育成した新式陸軍をもとに,民国以後の中央政府を支配した最大の軍閥。袁の死 (1916) 後は段祺瑞らの安徽派,馮国璋 (ふうこくしょう) ,曹こん,呉佩孚 (ごはいふ) らの直隷派,張作霖の奉天派に分裂し,安徽派,奉天派は日本,直隷派はアメリカの支援を受けて,南方の革命派や西南軍閥に対抗するとともに,相互に北京の中央政府や地方の地盤を争奪し,「軍閥混戦」の事態を出現した。蒋介石の北伐にあたって,あるものは滅亡し,あるものは蒋政権に吸収されて,北洋軍閥は解体した。
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北洋軍閥
ほくようぐんばつ
中華民国初期、袁世凱(えんせいがい)を源流とし、北京(ペキン)政権を形成した軍閥の総称。その政府を北洋政府、その時代(1913~28)を北洋時代ともいう。日清(にっしん)戦争(1894~95)の敗北後、袁世凱によって育成された北洋新軍が北洋軍閥の基盤となった。1911年の辛亥(しんがい)革命の成果を奪い、第二革命(1913)の武力弾圧による袁の独裁化に伴って北洋派の支配が確立された。袁の死(1916)後、北洋軍閥は直隷(ちょくれい)派、安徽(あんき)派に分裂し、それに北洋の傍系である奉天(ほうてん)派の三派を主軸に対立、抗争を深めていった。軍閥相互の勢力関係の変転は、帝国主義列強相互の利害対立抗争を反映したもので、国際政治の変動と密接に関係していた。軍閥の財政基盤は、外国の借款と農民からの収奪にあった。26年に始まる国民革命軍の北伐により北洋派は事実上崩壊した。
[南里知樹]
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ほくようぐんばつ【北洋軍閥 běi yáng jūn fá】
中国近代の袁世凱系軍事集団の総称。北洋とは南洋にたいする語で,江蘇,山東,直隷(河北),遼寧の北方沿海諸省を包括する,清末に設けられた歴史地理区画である。直隷総督が兼任する北洋大臣がその地域での外国との交渉問題などを管轄した。かつて北洋常備軍ともいった新軍を北洋軍と簡称したことはあるが,北洋軍閥との呼称は民国以後のものである。それは袁世凱の新軍創建に起源し,新軍の拡充にともない,1905年(光緒31)には〈北洋6鎮(鎮は師団)〉を数えるにいたった。
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北洋軍閥
ほくようぐんばつ
清朝末期から中華民国初期にかけての最大の軍閥
1895年袁世凱 (えんせいがい) が天津で編成した新軍を基盤に成立し,袁世凱が直隷総督兼北洋大臣としてこれを管轄するに及んで北洋軍閥の基礎が確立した。袁はこの軍事力を背景に,中華民国の初代大総統となった。袁の死後,部下の段祺瑞 (だんきずい) の安徽派 (あんきは) ,馮国璋 (ふうこくしよう) ・曹錕 (そうこん) ・呉佩孚 (ごはいふ) らの直隷派および傍系的存在である張作霖の奉天派に分裂し,それぞれ列強の支援を受けながら争った。
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世界大百科事典内の北洋軍閥の言及
【軍閥】より
…ゆえに地盤争奪のための戦争は不可避とされ,中華民国の前半20年間に大小数千回の内戦があったとされる。 中華民国となって最初に中央権力を掌握したのは,淮軍の流れをくむ袁世凱の北洋軍閥である。北洋軍閥は華北・華中の要衝をおさえることにより,周辺の諸軍閥をしたがえたのである。…
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