コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

張勲 ちょうくんZhang-Xun; Chang-Hsün

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

張勲
ちょうくん
Zhang-Xun; Chang-Hsün

[生]咸豊4(1854)
[没]1923. 天津
中国,清末,民国初期の軍人。江西省奉新県の人。字は少軒。袁世凱の部下となり,光緒 26 (1900) 年義和団鎮圧 (→義和団事変 ) の功により記名提督に進み,次いで各地の提督を歴任。辛亥革命が起ると両江総督に任命されたが,革命軍に敗れた。以後も袁世凱に従い,1916年安徽督軍となった。 17年北上して溥儀を擁立し,清朝再興をはかる張勲の復辟事件 (→復辟運動 ) を起したが 10日で失敗した。彼の軍の多くは辛亥革命後も辮髪をつけていたので辮子軍と呼ばれた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル大辞泉の解説

ちょう‐くん〔チヤウ‐〕【張勲】

[1854~1923]中国、末の北洋軍閥の軍人。江西省の人。字(あざな)は少軒。袁世凱(えんせいがい)のもとで雲南・江南提督などを歴任、のち安徽(あんき)督軍。1917年、北京に入り清朝復辟(ふくへき)を宣言したが、段祺瑞(だんきずい)の討逆軍に敗れた。チャン=シュン。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

百科事典マイペディアの解説

張勲【ちょうくん】

中国,清末民国初期の軍閥。江西省の人。袁世凱に信任され,各地の提督を歴任。民国初めの第二革命で袁世凱を支援し,南京を奪還。1917年黎元洪支援の名目で北京に入城,国会解散,宣統帝の復辟(ふくへき)を企図したが,段祺瑞らの反撃で失敗した。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典 第2版の解説

ちょうくん【張勲 Zhāng Xūn】

1854‐1923
中国の軍人。江西省奉新県の人。字は紹軒。1899年(光緒25)の山東義和団鎮圧で名を挙げ,民国成立後は,反革命の最保守派として終始した。辮髪の風習を残していたために辮軍と呼ばれたその軍隊は,1913年9月,第二革命弾圧に出動して南京で略奪事件を起こし,日本の干渉を招いた。張勲は,第1次大戦参戦問題をめぐる国内政局の乱れに乗じて,17年7月,清朝復辟(ふくへき)のクーデタを敢行したが,その天下は12日しか続かなかった。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

大辞林 第三版の解説

ちょうくん【張勲】

1854~1923) 中国の軍人。袁世凱えんせいがいの援助を受け、辛亥しんがい革命・第二革命で革命軍と闘う。北京で清朝宣統帝を再び位につけようとしたが、敗れて失脚した。チャン=シュン。

出典 三省堂大辞林 第三版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

張勲
ちょうくん / チャンシュン
(1854―1923)

中国、北洋軍閥の軍人。江西省に生まれる。日清(にっしん)戦争敗戦後、袁世凱(えんせいがい)の新軍編成に参画し、袁の山東の義和団鎮圧に加わった。のち北京(ペキン)で西太后(せいたいこう)と光緒(こうしょ)帝の護衛役を務め、雲南、甘粛(かんしゅく)、江南提督を歴任した。辛亥(しんがい)革命に際し、南京(ナンキン)で革命軍と戦って敗れたが、袁世凱の大総統就任後、部隊を武衛前軍と改称して(えんしゅう)に駐屯し、安徽(あんき)督軍の地位を得た。清朝に忠誠を誓って、部下の剪髪(せんぱつ)を禁じ弁髪でいたので、彼の軍は「弁子軍」とよばれた。1917年、黎元洪(れいげんこう)総統と段祺瑞(だんきずい)総理との抗争に際し、調停の名目で北京に入り、溥儀(ふぎ)を擁立して清朝の再興を図り、自ら議政王大臣兼直隷総督・北洋大臣に任じたが、段祺瑞の「討逆軍」に敗れ、のち天津(てんしん)で病死した。[小島晋治]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

張勲の関連キーワードチャンシュン広東政府護法運動南京事件張本勲直隷派宗社党岡田満馮国璋曹こん

今日のキーワード

届け出挙式

婚姻届を提出した後、そのまま自治体の役所で結婚式を挙げること。2017年2月、北海道苫小牧市が結婚情報誌「ゼクシィ」(リクルート)からの協力を受けて実施した。これを始まりとして、三重県鈴鹿市や東京都足...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

張勲の関連情報